「天保山町 (鹿児島市)」の版間の差分
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天保山は名前の通り、[[天保]]年間に天保の改革の一環として[[甲突川]]の浚渫土砂によって埋立てられ造成された土地である{{Sfn|鹿児島市史編さん委員会|1969|p=368}}{{Sfn|鹿児島市史編さん委員会|1969|p=384}}{{Sfn|芳即正|五味克夫|1998|p=170}}。
のちに[[島津斉興]]によって洋式砲術調練場が天保山に設置され{{Sfn|芳即正|五味克夫|1998|p=170}}、砲台や防弾火薬庫が整備されのちに[[島津斉彬]]によって改修された{{Sfn|芳即正|五味克夫|1998|p=170}}。
[[1862年]](文久2年)[[9月14日 (旧暦)|9月14日]]、[[武蔵国]][[橘樹郡]][[生麦|生麦村]](現在の[[神奈川県]][[横浜市]][[鶴見区 (横浜市)|鶴見区]][[生麦]])において[[薩摩藩]]の国父[[島津久光]]の行列に乱入した騎馬の[[イギリス人]]を薩摩藩士が[[無礼討ち]]した事件([[生麦事件]])に端を発して、[[1863年]](文久3年)[[7月2日 (旧暦)|7月2日]]、薩摩藩に対して交渉を行うため[[鹿児島湾]]に7隻のイギリスの艦隊が派遣された。イギリス側が薩摩の汽船3隻を掠奪したことに激発した薩摩藩は天保山に
{{See also|生麦事件|薩英戦争}}
=== 明治初期から天保山町の設置まで ===
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