「関門トンネル (山陽本線)」の版間の差分

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→‎戦時中から戦後まもなくにかけて: 講和条約後にこのような輸送があったとは聞かない、出典のないことを書かないで
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海水に常時さらされている関門トンネル内のレールは、電気車の運転電流が漏洩しやすく、電気化学的な作用により金属イオンが溶け出す電蝕が発生するという問題を抱えていた<ref name = "高専41_27" />。このため戦中戦後の2回にわたり、通常は架線側がプラス、レール側がマイナスに印加されている直流1,500ボルトの電気の極性を逆転させて、レールをプラス、架線をマイナスにする極性変換試験が実施された<ref name = "高専41_27" />。しかしこれには十分な効果が確認できなかったという<ref name = "高専41_27" />。そこで1954年(昭和29年)に強制排流器が設置された<ref name = "高専41_27" />。これは外部直流電源をレールと接地点の間につなぎ、運転電流の漏洩分を相殺してレール電位を負にするものである<ref name = "高専41_27" />。
 
1950年(昭和25年)6月25日に[[朝鮮戦争]]が勃発すると、九州北部の駅は朝鮮半島方面へのアメリカ軍や[[イギリス軍]]の部隊の出動や補給の拠点となり、本州方面から北部九州への軍事輸送列車が多数関門トンネルを通過することになった<ref name = "ものがたり_87" />。この際に、それまで関門トンネルには火薬類の通過制限が設定されていたが、アメリカ軍は火薬類通過制限の無条件解除を6月28日に指令し、危険を冒して輸送が実施されることになった<ref name = "ものがたり_87" />。1951年(昭和26年)に連合軍の日本占領が終わっても「[[日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約]]」などによりこのような状況は続いた
 
=== 西日本水害による水没事故 ===