「エドワード・アシリング」の版間の差分

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'''エドワード・アシリング'''('''エセリング'''('''Edward(Edward Ætheling''')Ætheling)、または亡命者エドワード('''Edward(Edward the Exile''')Exile)、[[1016年]] - [[1057年]]2月)は、[[イングランド王国|イングランド]]王[[エドマンド2世 (イングランド王)|エドマンド2世]]とエディス・オブ・イースト・アングリア([[:en:Edith of East Anglia|Edith of East Anglia]], またはÆldgyth)の息子。「亡命者」という添え名は、その生涯のほとんどを祖国イングランドから遠く離れてところで過ごしたことからつけられた。
 
== 生涯 ==
1016年に[[デーン人]]がイングランドを侵略し、エドマンド2世の死を経て、[[デンマーク]]王子[[クヌート1世 (イングランド王)|クヌート]]がイングランド王に即位した。クヌートはエドマンド2世の子エドワードとエドマンドを大陸に追放した。生後数月だったエドワードは、この子を殺すようにとの指図書きとともに[[スウェーデン]]王[[オーロフ (スウェーデン王)|オーロフ]]の王宮に連れて行かれた。しかしエドワードは密かに[[キエフ]]に運ばれた。[[キエフ大公]][[ヤロスラフ1世]]の王妃インゲゲルド([[:en:Ingegerd Olofsdotter{{enlink|Ingegerd Olofsdotter]])}}はオーロフの娘だった。そこから[[ハンガリー王国|ハンガリー]]に移された。<!--他の家系関係は検証不可能につき省略-->
 
それから長い年月が経ち、クヌート死後に即位した叔父のイングランド王[[エドワード懺悔王]]はエドワードが生きていたことを知り、自分の王位継承者にするためにエドワードをイングランドに呼び戻した。エドワード生存の報せが懺悔王の耳に届いたのは、デーン人による長いイングランド支配からアングロ・サクソン王朝(ウェセックス家)が覇権を取り戻したものの、後継者がおらず、その家系が途絶えかけ、[[ウェセックス伯爵|ウェセックス伯]]{{仮リンク|ゴドウィン([[: (ウェセックス伯)|label=ゴドウィン|en:|Godwin, Earl of Wessex|Godwin]])}}の子であるハロルド・ゴドウィンソン(後の[[ハロルド2世 (イングランド王)|ハロルド2世]])や、海峡の向こうの[[ノルマンディー公]]ギヨーム2世(後の[[ウィリアム1世 (イングランド王)|ウィリアム1世]])が次の王位を狙っている時期だった。エドワードはウセックス家を受け継ぐ最後の頼みの綱であったのだ。<!--以下省略-->
 
1057年、エドワードはイングランドに帰国したが、到着して2日後に亡くなってしまった。正確な死因は不明であるが、殺された可能性もある。<!--以下省略-->
 
== 家族 ==
エドワードには[[ハンガリー王]][[イシュトヴァーン1世]]の娘とされるアガサという妻がいたが、彼女の出生については諸説ある([[:en:Agatha, wife of Edward the Exile]]を参照)。2人には3人の子供がいた。
*[[エドガー・アシリング]]
*[[マーガレット・オブ・スコットランド|マーガレット]] - [[スコットランド王国|スコットランド]]王[[マルカム3世 (スコットランド王)|マルカム3世]]と結婚
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エドガーは父に代わって王位継承者に選ばれたが、あまりに若すぎたため、結局ハロルド・ゴドウィンソンに王位を奪われた。
 
== 参考文献 ==
* Gabriel Ronay, ''The lost King of England : the East European adventures of Edward the Exile'', Woodbridge, Suffolk ; Wolfeboro, N.H., USA : Boydell Press, 1989, ISBN 0-85115-541-3, pp. 109-121
 
== 外部リンク ==
* [http://genealogy.euweb.cz/brit/cerdic2.html Genealogy for Edward the Exile]