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==経歴==
[[長野県]][[松本市]]に生まれる。[[4歳]][[]]から囲碁を習う。同時に[[ピアノ]]、[[合気道]]、[[書道]]も習ったが、父の熱意で囲碁だけが続けられた。6歳で木谷実の[[内弟子]]となる。入門時に「[[呉清源]]先生を負かすまでは松本に帰ってきません」と言ったという。しかし両親の心配により、2年後に松本に帰郷し、その後3年間は3人の弟とともに自宅で囲碁を続ける。[[1966年]]に[[全日本女流アマチュア囲碁選手権大会]]で4位になって、木谷から再入門促す[[手紙]]を受け取り、両親とともに[[上京]]して、4姉弟は木谷門下となって日本棋院[[院生 (囲碁)|院生]]となる。当初は[[土曜]]木谷会で指導を受けていたが、翌年から内弟子となり、4人で一部屋をあてがわれた。その2年後にはまた[[通い弟子]]となる。
 
[[1972年]]に入段、4姉弟では最初の入段となった。1975年三段時に女流選手権戦で挑戦者となり[[本田幸子]]に1-2で敗退するが、[[1976年]]には2-1で勝って初の女流選手権者となる。以後3連覇するが、[[1979年]]に[[小川誠子]]にタイトルを奪われる。[[1978年]]五段。1989、93、97年には女流鶴聖戦で優勝。
 
高校卒業後に日本棋院から普及のために[[ヨーロッパ]]に派遣され、次いで21歳でヨーロッパに3ヶ月、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に半年滞在するなどして[[英語]]を覚え、囲碁普及に尽力。ヨーロッパの才能のある子供の日本留学の支援に功績があり、[[ハンス・ピーチ]]六段もその一人。活動を支援する組織'''千寿会'''も結成されている。[[2007年]]には[[文化庁]]文化交流使の指名を受ける。2010年に日本棋院常務理事(出版部、海外室)就任し、2012年に退任。2011年5月より、[[日本将棋連盟]]非常勤理事に就任。2011年8月に[[松江市|松江観光大使]]。
 
2016年6月、日本棋院常務理事(棋戦企画部、2020年[[東京オリンピック・パラリンピック]]担当)に就任。
 
===タイトル歴===