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[[甘寧]]が死去すると、その軍の指揮も任された。[[222年]]、[[夷陵の戦い]]にも参戦し[[陸遜]]と協力して[[蜀漢]]の[[劉備]]を破った。部下が蜀の大督をしていた[[馮習]]を討ち取るという大功を立て、その他敵将や兵士の多くを殺傷したため、平北将軍・[[襄陽市|襄陽]]太守となった。
 
同年、[[魏 (三国)|魏]]の[[曹真]]・[[夏侯尚]]・[[張郃]]らが[[南郡 (中国)|南郡]]に攻め入り、援軍に赴いた[[孫盛 (孫呉)|孫盛]]が張郃に撃退された。夏侯尚は先鋒隊のうちの3万人を率いて、浮き橋を作って[[長江]]の中州に渡り、そこに陣営を設け軍勢を駐屯させた。諸葛瑾・楊粲が手勢を合わせて救援に駆けつけたが、なすすべを知らなかった。大量の魏軍は毎日、続々と中洲へと渡った。潘璋は「魏の軍勢は始め盛んで、江水もまだ浅く、まだ戦うべきではありませぬ」と言い、軍力を温存し、魏軍の攻勢を避けていた。潘璋は上流から、温存の対策として水城を築いて水を貯める。ただちに手勢を率いて魏軍より五十里ほど上流へ行き、水城を築き、数百万束の葦を刈って大筏を作り、火を着けて流し、浮橋を焼き払おうとした。ちょうど筏を作り終えて増水に乗せて流そうとしたとき、この計画を実行に移す前に夏侯尚は曹丕の勅命で中州から撤退した。水城や満潮により水軍で諸葛瑾軍と共に魏軍を撤退させた。戦い後、潘璋は魯粛や呂蒙の後を継いで陸口の守備にあたることになった。<ref>『呉書』潘璋は呉軍総司令の駐屯地を引き継ぎ、陸口の守りについた。</ref>
 
[[226年]]、孫権は江夏を攻めたが、潘璋も参加した。殿軍を潘璋に任せて撤退すると、夜間に撤退の途中で混乱が生じ、潘璋はこれを止められず、文聘はこれを見逃さず殿軍部隊を追撃し散々に打ち破った。朱然は、すぐさま取ってかえすと文聘を撤退させ、自軍の撤退が成功したのを見届けてから自身も悠々と退却した。