「仁徳蕭皇后」の版間の差分
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== 経歴 ==
[[睿智蕭皇后]](聖宗の母)の弟の蕭隗因の娘として生まれた。12歳のとき、美貌と才能により選抜されて掖庭に入った。[[統和]]19年([[1001年]])、斉天皇后に冊立された。皇子2人を生んだが、いずれも早くに亡くなった。[[開泰 (遼)|開泰]]5年([[1016年]])、宮人[[欽哀蕭皇后|耨斤]](
[[重熙]]元年([[1032年]])3月、耨斤は人を派遣して殺害しようとした。使者がやってくると、皇后は「わたしが実は無罪であることは、天下がともに知ることです。卿はわたしが入浴して身を清めるのを待ちなさい。その後に死につきましょう。よろしいか」と言ったので、使者は退いた。こうして皇后は死去した。享年は50。
重熙21年([[1052年]])、仁徳皇后と追尊された。欽哀皇后とともに慶陵に陪葬された。
== 伝記資料 ==
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