「耶律濬」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
8行目:
6月、耶律乙辛は牌印郎君の[[蕭訛都斡]]らに命じて蕭速撒らが皇太子を即位させる陰謀をめぐらせていると再び誣告させた。道宗はこれを信じて、耶律濬を別室に幽閉し、[[耶律燕哥]]に取り調べさせた。耶律濬は「吾は儲副となりて、なお何の所ぞ求めん。公まさに我がためにこれ弁ずべし」と陳述したが、耶律燕哥は耶律乙辛の仲間だったので、その発言を歪曲して報告した。道宗は激怒して、太子を廃して庶人に落とした。宮殿から出されるにあたって、耶律濬は「我何の罪あってここに至らん」と言った。蕭十三は車に登って叱咤し、衛士に車の扉を閉めさせた。耶律濬は[[上京臨潢府]]に身柄を移されると、円塀の中に幽閉された。11月、耶律乙辛は[[蕭達魯古]]や蕭撒八を派遣して耶律濬を殺害させた。享年は20。上京[[留守官|留守]]の蕭撻得は病死と道宗に報告した。道宗は息子の死を憐れんで、遺体を龍門山に葬らせた。道宗が耶律濬の妃の蕭氏を召しだそうとしたため、耶律乙辛はひそかに人を派遣して妃を殺させた。
 
道宗は後に冤罪と知って後悔したが及ばず、昭懐太子と諡して、天子の礼で玉峰山に改葬させた。[[乾統 (遼)|乾統]]元年([[1101年]])10月、天祚帝により大孝順聖皇帝と追尊され、廟号を順宗とした。妃の蕭氏は貞順皇后と追尊された。
 
== 子女 ==
=== 子 ===
*耶律阿果([[天祚帝]]
=== 女 ===
*耶律延寿(秦晋国長公主、[[蕭韓家奴]]の妻)