「菅沼定村」の版間の差分

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'''菅沼  定村'''('''すがぬま  さだむら'''、[[大永]]元年([[1521年]]) − [[弘治]]2年([[1556年]])[[8月4日_(旧暦)|8月4日]])は、[[戦国時代_(日本)|戦国時代]]の[[武将]]。[[菅沼定則]]の長男。[[野田菅沼氏]]2代目。幼名、竹千代。通称、新八郎。[[織部正]]。正室は深溝[[松平忠定]]の娘。[[菅沼定盈]]は長男。
 
[[天文_(元号)|天文]]13年([[1544年]])1月、父の隠居により家督を継ぐ。[[今川氏]]への忠勤に励んでいた[[弘治_(日本)|弘治]]2年([[1556年]])、[[奥平貞勝]]の[[今川氏]]離反に本家・[[田峯菅沼氏]]も加担。それぞれ、本拠に立て籠もった。自身は離反に加担しなかったが、弟2人が本家に加わった。この造反には、[[駿府]]から東[[三河国|三河]]の諸将へは鎮圧が命じられたため、同年[[8月4日_(旧暦)|8月4日]]、[[奥平貞勝|貞勝]]に与する[[額田郡]]雨山へ攻め入った。ところが、定村の率いる野田菅沼軍だけが突出。後続の無いままに先立って、戦端を開いてしまう。しかも、防衛側から放たれた矢によって、馬上から下知する定村は左喉から耳を貫かれ、落馬絶命。大将を失った野田勢は定村の弟2人による立て直しも空しく、壊滅した。
 
[[Category:菅沼氏|さたむら]]