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'''菅沼 定盈'''('''すがぬま  さだみつ'''、[[天文 (元号)|天文]]11年([[1542年]]) − [[慶長]]9年[[7月18日 (旧暦)|7月18日]]([[1604年]][[8月13日]]))は、[[戦国時代_(日本)|戦国時代]]の[[武将]]。[[菅沼定村]]の長男。[[野田城|野田]][[菅沼氏]]3代目。幼名、竹千代。通称、新八郎。[[織部正]]。正室は長沢[[松平政忠]]の娘。後室は桜井[[松平家次]]の娘。
 
[[弘治_(日本)|弘治]]2年([[1556年]])、父の戦死により家督を継ぎ、[[今川氏]]への忠勤に励む。[[桶狭間の戦い]]以降は[[松平氏]]に帰属。従兄弟の[[西郷清員]]と共に、家康への忠節を尽くし続けた。[[永禄]]11年([[1568年]])12月、家康の[[遠江国]]攻め入りに先立って敵方の懐柔工作に携わり、井伊谷の同族・[[菅沼忠久]]の調略に成功した。しかし、[[元亀]]2年([[1571年]])以降、[[武田氏]]による[[三河国|三河]]侵攻は活発化。[[信濃国|信濃]]から南下してきた[[武田氏]]配下・[[秋山信友]]は、菅沼本家の[[田峯菅沼氏]]を降らせ、さらに南進。このため[[設楽郡]]竹広において合戦に及んだ(竹広合戦)。定盈は隣郡[[八名郡]]の縁戚・[[西郷氏]]や亡父・[[菅沼定村|定村]]の妹婿となった[[設楽貞通]]と共闘し、一時的に武田軍を退ける事に成功する。勝ちきれなかった秋山は、力押しの[[三河国|三河]]切り崩しから方針を転換。[[田峯菅沼氏]]を使って[[菅沼氏]]の各支族に降伏を促したが、定盈の[[野田菅沼氏]]だけが拒絶。同年4月、武田軍は定盈を標的に本格攻勢。その居城を踏み潰して定盈を退散させたばかりか、[[吉田城_(三河国)|吉田城]]まで攻囲し、威圧。奥三河を我が物顔で蹂躙した。[[元亀]]4年([[1573年]])正月、前年末の[[三方ヶ原の戦い]]に勝利した[[武田信玄]]が再び来攻。[[野田城の戦い]]である。この時の定盈は、防備を強化した[[野田城_(三河国)|野田城]]に立て籠り一ヶ月の抵抗を示したが、水の手を断たれたために、[[2月15日 (旧暦)|2月15日]]に開城降伏して捕らわれた。武田軍は、この攻城戦に勝利しながら西上を断念し、[[信濃国]]を経由して帰国の途についている。同年3月の人質交換で家康への帰参が叶った定盈は、[[天正]]3年([[1575年]])5月、[[長篠の戦い]]に参戦。同月21日の早朝、[[酒井忠次]]率いる鳶ヶ巣山奇襲隊の一員として戦功を挙げ、武田軍への雪辱を果たしている。[[関東]]への移封では、[[上野国]]阿保に1万石で配される。[[関ヶ原の戦い]]では、[[江戸城]]留守居役。戦勝によって[[伊勢国]]長島2万石に加増転封。[[慶長]]9年([[1604年]])[[7月18日 (旧暦)|7月18日]]に死去。竹千代の幼名を継がせた長男には先立たれ、2男の[[菅沼定仍]]が家督を継いでいる。