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:[[鎌倉時代]]の南関東。[[桓武平氏]]流諸氏の領地内に[[清和源氏]]流[[源頼朝]]が[[鎌倉幕府]]を開き、北関東以北を基盤とする清和源氏が南関東に進出する第一歩となった。鎌倉を中心とした相模国が南関東の中心だった。
*'''[[利根川]]以南'''
:[[戦国時代_(日本)|戦国時代]]後期、[[小田原城|小田原]]に台頭し関東を席巻した[[伊勢平氏]]流[[後北条氏]]を[[豊臣秀吉]]・[[宇都宮国綱]]・[[佐竹義重]]らが制圧し、[[清和源氏]][[新田氏]]流[[徳川家康]]が関東に入封すると、関東一帯は当時の北関東の勢力であった[[藤原北家]]・[[清和源氏]]流諸氏の体制で統一された。徳川家康は[[利根川東遷事業]]を号令し、江戸湾に注いでいた暴れ川・[[利根川]]や[[渡良瀬川|太日川]](現在の渡良瀬川~江戸川)を東遷し、それまで多雨期の氾濫によって湿地帯となっていた[[入間川]]~[[江戸川]]中下流域低地を開拓(干拓)して[[江戸]]の町を確立した。これ以降、利根川を境とした南側を南関東とみなす。現在の'''一都三県'''に相当する。関東平野一帯の河川東遷により、以前は自然障壁として関東平野の中央部に広がっていた入間川~毛野川に亘る幾多の河川や広大な低湿原地帯が一気に干拓され、従前から[[藤原北家]]・[[清和源氏]]流諸氏が治めていた一部地域も含め利根川以南地域一帯が南関東の勢力に組み込まれた。この時代、相模国(鎌倉や小田原)から武蔵国(江戸)に南関東の中心が北上した。なお、南関東の重要拠点であった[[小田原城]]には[[藤原北家]][[宇都宮氏]]流を称す'''大久保氏'''が入封し[[明治時代]]まで続いた。
*'''一都二県'''
:(千葉県+東京都+神奈川県)
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古代の[[北関東]](関東地方の[[東山道]]区域)には毛野川流域に[[毛野国]]が成立し、一方の[[南関東]]には[[多摩川]]流域に[[无耶志国]]が成立していた。毛野国から分国された[[下野国]]の[[国造]]氏一族である[[下野宇都宮氏|下毛野氏|下毛野古麻呂]]は[[奈良時代]]、[[大和朝廷]]に呼ばれ[[藤原不比等]]とともに[[大宝律令]]([[701年]]制定)の編纂に従事し、[[律令制]]が敷かれた際には[[武蔵国]]は東山道の地域区分に割り当てられていたから、当時の武蔵国は北関東と同一地域であったとみなすこともある。その直ぐ後の[[771年]]、武蔵国は[[東海道]]に編入され、江戸時代以前の地方区分が形作られた。
 
[[平安時代]]、[[桓武天皇]]は多くの皇子に恵まれ、その職位を増やすために[[親王任国]]制度を作り、[[上野国]]、[[常陸国]]、[[下総国]]をこれに指定した。[[親王]]は赴任せずに禄を得られたため、親王の血族で下級貴族であった[[桓武平氏]]の勢力が関東一円に広がり[[坂東平氏]]が起こった([[鎌倉氏]]、[[三浦氏]]、[[千葉氏]]等)。坂東平氏は地域に土着し強い勢力を有することになり、[[鎌倉幕府]]を起こした[[清和源氏]]・[[源頼朝]]の一族でさえ坂東平氏一門の[[北条氏]]に滅ぼされ、また[[戦国時代_(日本)|戦国時代]]に関東に覇を唱えた[[伊勢平氏]]の[[後北条氏]]には関東の名門[[清和源氏]]流[[佐竹義重]]や同[[里見義康]]、[[藤原北家]]流[[宇都宮国綱]]、同[[結城晴朝]]も疲弊させられたが、何れも[[清和源氏]]を称する勢力([[新田氏]]、[[徳川氏]]など)によって制圧された。制圧の後、鎌倉には[[清和源氏]]流[[足利氏]]が、また小田原には[[藤原北家]][[宇都宮氏]]流を称す大久保氏が配置されこれを統治した。この期間、鎌倉は[[和賀江島]]を拠点とする宋や元との交易によって富を得て、また鎌倉から関東各地には[[鎌倉街道]]が設けられ、南関東の中核として大いに繁栄した。
 
江戸時代、[[徳川幕府]]は先述の利根川東遷により江戸から[[北関東]]に至る水路を確保し、北関東・[[奥州]]と江戸を結ぶ物流水路を整備することに成功した。この水路整備こそが江戸の町を世界に名だたる大都市とする基盤となったのである。[[徳川家]]は腹心・譜代の旗本等(何れも藤原北家・清和源氏の諸流一族)を関東各地に配し、[[明治維新]]によって[[王政復古]]・[[版籍奉還]]がなされるまで、関東一帯はいわば[[藤原北家]]・[[清和源氏]]流諸氏が支配する土地となり、逆にこれが関東の文化を比較的画一化・平坦化したと言える。