「北関東」の版間の差分

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[[古墳時代]]、関東地方には[[鬼怒川|毛野川]](けぬのかわ=現在の[[鬼怒川]])流域一体に[[毛野国|毛野国(けぬのくに)]]が成立しており、[[下野宇都宮氏#下毛野氏|毛野氏]]は[[ヤマト王権]]の中でも大きな発言力を有していたと言われる。毛野国は北関東の中央部に位置し、開祖は第十代天皇・[[崇神天皇]]の子・[[豊城入彦命]]で、毛野氏はその後裔と伝えられる。[[飛鳥時代]]後期、毛野氏後裔の[[下野宇都宮氏#下毛野氏|下毛野古麻呂]]は[[藤原不比等]]らとともに[[ヤマト王権]]の律令制定([[大宝律令]]:[[大宝]]元年)の編纂に関わったと言われる。[[金太郎|足柄山の金太郎]]のモデルは'''下毛野公時'''で、[[足利銀行]]のマスコットキャラクターは金太郎であった。
 
[[戦国時代_(日本)|戦国時代]]以前、関東地方は[[藤原氏]]流あるいは[[河内源氏]]流で毛野氏の流れをくむ諸氏の治世であり、都の文化を基盤とした関東独特の文化が培われてきた。しかし[[織田信長]]、[[豊臣秀吉]]による武力革命の後、こうした[[関東地方]]の文化を築いた諸名家([[足利氏]]、[[上杉氏]]、[[佐竹氏]]、[[武田氏]]、[[宇都宮氏]]、[[小山氏]]、[[結城氏]]、[[小田氏]]等)は支配的地位から退くことを余儀なくされた。
 
主を失った関東の地で、これら諸氏の受け皿となったのが[[清和源氏]][[源義家|義家流]]・[[新田氏]]の名を継ぎ[[江戸幕府]]の祖となった[[徳川家康]]公であった。[[徳川氏]]は着々と関東各地に[[親藩]]や[[旗本]]・[[譜代大名]]など腹心を配置し、あるいは直轄地([[天領]])化し、戦国期の「覇道」的支配体制(武力・苛烈な法をもって治める方法)に代えて「鳴くまで待とう・・・」に象徴される「王道」的支配体制(仁徳をもって治める方法)を敷いた。こうして[[江戸時代]]の間、関東はさしたる大変化や大改革も求められず、(大雑把な意味での)古来の[[関東平野]]に根付いた文化が引き続き培われ、更にそれが領主の定期交代によって関東一円で一様化された。
 
しかし、欧米列強による[[大航海時代帝国主義]](グローバル化)の波は[[日本国]]内に覇道動揺惹きさせこし、江戸幕府の王道的統治機構を麻痺・崩壊に至らしめた。こうして関東地方は再び大きな主を失うこととなった。[[倒幕運動]]・[[戊辰戦争]]といった武力闘争の末に誕生した[[明治政府]]は国家の近代化・列強化、そして[[中央集権]]化を「民主的な法」をもって急速に推進し、明治政府の本拠地となった[[江戸]]は、中央政府の「近代国家・日本」の象徴・首都[[東京市|東京]]たるべく急激に改造され、それに見合う「東京文化」が新たに形成された。しかし、その表舞台となった関東地方に根付く旧来の民衆、都市構造、文化といった要素は、「東京文化」に相反するものであり、「東京」との距離が生じる結果となった。
 
こうした歴史を見ると、関東地方は、「日本の首都・東京を抱える地方」という実状は元より、「古くから関東平野に培われた独自文化が放置され、急激な近代化・列強化した文化に直接曝された地方」という意味合いを背後に含んでいるのである。
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[[栃木県]]最大の都市である[[宇都宮市|宇都宮]]を中心とする地域。宇都宮市・日光市・[[下野市]]・[[塩谷郡]]・[[河内郡]]・[[芳賀郡]]・[[真岡市]]・[[鹿沼市]]・[[上都賀郡]]。古代・[[毛野国|毛野国(けぬこく)]]の時代から[[鬼怒川]](毛野川:けぬのかわ)の上中流域に位置し、肥沃な土地を基盤として安定した地域が形成されてきたが、一方で[[天正]]や[[幕末]]の動乱期には政権の180度転換を強いられて来た。[[薬師寺 (下野市)|下野薬師寺]]・[[宇都宮二荒山神社]]・[[日光二荒山神社]]・[[輪王寺]]等を歴史的基盤としている。日光の二社一寺(輪王寺・東照宮・日光二荒山神社)は[[世界遺産]]に登録されている。
 
古くは[[東山道]]の北側に位置する要害の地であり、遥か京から蝦夷を見据える重要拠点であった。また宇都宮は[[鎌倉街道|中道(なかつみち)]]の最北端に位置し、[[奥州]]に抜ける際には必ず通らねばならない要衝であり、[[下野国]][[一之宮]]・宇都宮二荒山神社が置かれた。平安~鎌倉期には[[藤原秀郷]]卿や[[藤原北家]][[藤原道兼|道兼流]]・[[宇都宮氏]]等、蝦夷対策に中央政府から派遣された武人ないし祭祀が支配権を有し、特に宇都宮二荒山神社の神職者であった宇都宮氏は、[[京都]]の中央政府との繋がりを維持しつつ、[[鎌倉幕府]]の有力な[[御家人]]として、この地域の安定した地域形成に貢献した。室町期~戦国期には時の中央政府[[足利室町幕府]]([[足利氏]])を援護した宇都宮氏が毛野川流域一帯を統治し、宇都宮氏を支えた[[紀氏|紀]][[清原氏|清両党]]は主に毛野川東岸~小貝川流域を統治した。宇都宮氏は終始中央政府に従属し、足利将軍家をはじめ[[鎌倉府]]、[[関東管領]][[上杉氏]]に従って関東の治安維持に貢献したが、[[戦国時代_(日本)|戦国時代]]後期、[[豊臣秀吉]]によって改易された。[[益子氏]]の居館があった[[益子町|益子]][[西明寺]]には宇都宮氏の墓所が現存する。
 
その後、[[清和源氏]]を称する[[徳川家康]]が[[征夷大将軍]]に就き[[江戸]]の地に[[徳川幕府]]を開くと、[[江戸]]のお膝元として繁栄を享受した。[[江戸時代]]、家康は自分の廟所としてこの地を選び、その子[[徳川秀忠|秀忠]]は家康を祀って[[東照宮]]を建立、さらに孫・[[徳川家光|家光]]は東照宮を今日の姿に大造替した。これに伴って、[[江戸]]・[[京]]・[[仙台]]方面から家康の廟所・[[日光]][[東照宮]]に参詣するための交通路([[日光街道]]・日光[[例幣使街道]]、日光北街道など)が整備され、[[徳川家]]・諸[[大名]]・京の[[勅使]]など当時の要人達が行き交う要衝となると同時に、地域政治の中心地でもあった宇都宮は[[江戸]]から[[那須]]を経て[[陸奥国]]・[[白河市|白河]]へ向かう[[奥州街道]]の分岐点となり、江戸幕府にとって軍事的最重要拠点の一つとなった。[[幕末]]には新政府軍と旧幕府軍との抗争の場となり、[[戊辰戦争]]では新政府軍は宇都宮・六道の辻から[[宇都宮城]]・[[宇都宮二荒山神社]]に向け大砲による攻撃を行い、旧幕府軍を掃討した([[宇都宮城の戦い|宇都宮戦争]])。