「東日流外三郡誌」の版間の差分

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== 真偽論争 ==
『東日流外三郡誌』(およびその他の和田家文書)については、考古学的調査との矛盾(実際の十三湊の発掘調査では津波の痕跡は確認されておらず、また十三湊の最盛期は津波が襲ったとされる時期以降であったらしい)、「古文書」でありながら、近代の学術用語である「[[光年]]」(そもそも[[光速]]が有限であることが証明されたのは[[17世紀]]後半である)や「[[冥王星]]」「[[準星]]」など[[20世紀]]に入ってからの[[天文学]]用語が登場する<ref name="久保田1995pp168f">{{Harv|久保田|1995|pp=168 f}}</ref> など、文書中に現れる言葉遣いの新しさ、発見状況の不自然さ(和田家建物は[[1941年]](昭和16年)建造の家屋であり、古文書が天井裏に隠れているはずはない)、古文書の筆跡が和田喜八郎のものと完全に一致する、編者の履歴に矛盾がある<ref>[http://www.mars.dti.ne.jp/~techno/hihan/akita.htm 「秋田孝季」とは何者なのか?]</ref>、他人の論文を盗用した内容が含まれている、等の証拠により、偽書ではないかという指摘がなされた。これに対し、真書であると主張する者もおり、偽書派・真書派間で対立した。特に、偽書派の[[安本美典]]と真書派の[[古田武彦]]との間では、雑誌・テレビ・論文雑誌等で論争が行われた<ref name="久保田1995pp168f" />。
 
しかし、[[原田実 (作家)|原田実]]が真書派から偽書派へと転向するなど、偽書であるという説のほうが有力であった。一番の問題は、和田喜八郎が公開した資料は、あくまで喜八郎の祖父である末吉による写本(と喜八郎が主張したもの)であり、肝心の「原本」の公開を拒んでいたことであった。
 
[[1999年]](平成11年)に和田喜八郎が死去した後、和田家は偽書派により綿密に調査がなされた。この結果、天井裏に古文書を隠すスペースなど確かに存在せず(後日公開された和田家内部写真<ref>『[[東奥日報]]』[[2003年]](平成15年)2月25日付夕刊1面。{{Harv|斉藤|2006||p=311}}</ref> によれば、膨大な文書を収納できるようなスペースはなかった)、建物内には原本がどこからも発見されなかった上、逆に紙を古紙に偽装する薬剤として使われたと思われる液体([[尿]]を長期間保管したもの)が発見され、偽書であることはほぼ疑いがないという結論になった。[[青森県]]教育庁編『十三湊遺跡発掘調査報告書』<ref>『十三湊遺跡発掘調査報告書』第1分冊pp.63 第Ⅱ章 遺跡の環境 第4節 文献史料から見た十三湊と安藤氏 (2)十三湊関係の文献史料</ref>には、「なお、一時公的な報告書や論文などでも引用されることがあった『東日流外三郡誌』については、捏造された偽書であるという評価が既に定着している」と記載されるなど、現在では公的団体も偽書であることを公表している。
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== 擁護派 ==
偽書であるという評価がほぼ定着した現在も、真作説を主張する論者、および真作説に好意的な論者がいる。古田武彦は没するまで真作説を撤回することはなかった{{要出典|date=2020年8月}}。[[北村泰一]]、[[笠谷和比古]]、[[平野貞夫]]、[[吉原賢二]]、[[古賀達也]]、[[水野孝夫]]<ref group="注釈">元偽書派、古田史学の会代表就任後、古田武彦の反論と多元王朝説を支持する内容があることから擁護派の論客となる。{{Quotation|わたしはご承知のように和田家文書に関してはその信憑性に関して疑問を呈していますが、だからといって古田離れをするつもりはありません。|[[水野孝夫]]|{{Cite journal|和書|author=水野孝夫|date=1994-06-30|title=「古田史学の会」発足にあたって|journal=古田史学会報|issue=No.1|publisher=古田史学の会|url=http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/kaihou01.html}}}}{{Quotation|平成十九年は古田武彦氏の学問にとって画期的なテーマが次々に登場しました。青森県に伝わる『東日流外三郡誌』をはじめとする「和田家文書」の「[[#寛政原本|寛政原本]]」(寛政時代に書かれたもの)と思われるものが次々に発見されたこと、『[[魏志倭人伝|三国志]]』に記載された「[[裸国]]・[[黒歯国]]」にあたると思われる[[エクアドル]]訪問により、九州と共通する[[甕棺墓|甕棺]]や[[黒曜石]]を認識し現地の人々と交流を持ったこと、などです。|水野孝夫|{{Cite journal|和書|author=水野孝夫|date=2007-03-31|title=会員論集・第十一集発刊に当たって|journal=古田史学論集 第十一集 古代に真実を求めて|issue=No.11|pages=3-10|publisher=[[明石書店]]|url=http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinjit11/mizuno11.html}}}}</ref>、[[棟上寅七]]、[[竹下義朗]]、[[福永伸三]]、[[大下隆司]]、[[佐々木広堂]]、[[前田準]]、[[上岡龍太郎]]、[[飛鳥昭雄]]、[[高橋良典]]、[[内倉武久]]、[[松重楊江]]、[[久慈力]]、[[竹田侑子]]、西村俊一<ref>{{Cite web|date=2008-11-27|url=http://researchmap.jp/read0008672/|title=西村 俊一 - 研究者 - researchmap|publisher=researchmap|accessdate=2014-11-08}}</ref>、[[佐治芳彦]]、[[上城誠]]、[[合田洋一]]なども擁護派として挙げられる。この中には大学に職を得ているような学者・歴史家や著名人、政治家などもいる。
 
== フィクション作品への登場 ==