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===秀吉の水攻め===
中世、[[紀伊国]]は[[山名氏]]・[[大内氏]]・[[畠山氏]]などが[[守護]]を務めていた。だが[[高野山]]や[[粉河寺]]、[[紀三井寺]]といった寺社勢力が強い地域であり、中央集権的な統治は不可能であった。従って在地[[豪族]]は自立性が強く、大勢力に従う事には抵抗を見せた。[[戦国時代_(日本)|戦国時代]]、[[織田信長]]は[[石山本願寺]]に通じる[[雑賀衆]]・太田党や[[根来寺]]の討伐を行ったが、それは他の[[一向一揆]]に比べて峻烈なものではなく、和睦という形で決着を見た。この為寺社勢力はその影響力を保持したままであった。
 
[[1584年]]、[[小牧・長久手の戦い]]において[[根来寺]]・雑賀衆・太田党は[[徳川家康]]に味方し、[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]への敵対姿勢を強めた。この為翌[[1585年]]に秀吉は弟の[[豊臣秀長|羽柴秀長]]・[[豊臣秀次|羽柴秀次]]と共に60,000の軍勢を率い[[紀州征伐]]に乗り出した。根来寺を焼き討ちした羽柴軍は太田党の本拠地・[[太田城]](現・[[和歌山市]]太田)への攻撃を開始した。最初は力攻めを行ったが太田党の奇襲による打撃を受け、秀吉は得意の兵糧攻めによる攻撃に切り替えた。そしてこの時秀吉が選択したのは、[[備中国|備中]][[高松城]]攻めと同じ水攻めであった。