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{{基礎情報 皇族・貴族
| 人名 = レーネ・ツー・メクレンブルク=シュヴェリーン
| 各国語表記 = Helene zu Mecklenburg-SchwerinHélène
| 家名・爵位 =
| 画像 = Portrait ofde Helenela ofprincesse Mecklenburg-Schwerinroyale, (Duchessduchesse ofd'Orléans Orleans)- withFranz herXaver sonWinterhalter Prince- Louismusée Philippe,d'art Countet ofd'histoire Parisde bySaint-Brieuc Winterhalterb.jpg
| 画像サイズ =
| 画像説明 = オルレアン公爵夫人エレーヌと長男ルイ・フィリップ・アルベール1840年、[[フランツ・ヴィンターハルター]]画、1839年頃、[[ヴェルサイユ宮殿]]所蔵
| 続柄 =
| 称号 = [[オルレアン公]]妃
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| サイン =
}}
[[ファイル:The Duchess of Orléans (Helene of Mecklenburg-Schwerin) by Heinrich Pommerencke.jpg|thumb|オルレアン公爵夫人、ハインリヒ・ポメルレンケ(Heinrich Pommerencke)画、1850年頃]]
'''ヘレーネ・ルイーゼ・エリーザベト・ツー・メクレンブルク=シュヴェリーン'''([[ドイツ語|独]]:'''Helene Luise Elisabeth zu Mecklenburg-Schwerin''', [[1814年]][[1月24日]] - [[1858年]][[5月17日]])は、ドイツの[[メクレンブルク=シュヴェリーン]]大公家の公女で、フランス王[[ルイ・フィリップ (フランス王)|ルイ・フィリップ]]の世継ぎ王子であった[[オルレアン家|オルレアン公]][[フェルディナン・フィリップ (オルレアン公)|フェルディナン・フィリップ]]の妃。[[フランス語]]名は'''エレーヌ・ド・メクランブール=シュウェラン'''('''Hélène de Mecklembourg-Schwerin''')。
 
== 生涯 ==
[[ファイル:The Duchess of Orléans (Helene of Mecklenburg-Schwerin) by Heinrich Pommerencke.jpg|thumb|オルレアン公爵夫人1850年頃、ハインリヒ・ポメルレンケ(Heinrich Pommerencke)画、1850年頃]]
メクレンブルク=シュヴェリーン大公世子[[フリードリヒ・ルードヴィヒ・ツー・メクレンブルク|フリードリヒ・ルートヴィヒ]]とその2番目の妻でザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公[[カール・アウグスト (ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公)|カール・アウグスト]]の娘である[[カロリーネ・ルイーゼ・フォン・ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ|カロリーネ・ルイーゼ]]の間の第2子、長女として、ルートヴィヒスルスト宮殿([[:en:Schloss Ludwigslust|Schloss Ludwigslust]])で生まれた。父にとっては2番目の娘である。幼い頃に両親を相次いで亡くし、父方の祖父であるメクレンブルク=シュヴェリーン大公[[フリードリヒ・フランツ1世 (メクレンブルク=シュヴェリーン大公)|フリードリヒ・フランツ1世]]の手許で育てられた。
 
異母兄[[パウル・フリードリヒ (メクレンブルク=シュヴェリーン大公)|パウル・フリードリヒ]]大公の妻[[アレクサンドリーネ・フォン・プロイセン (1803-1892)|アレクサンドリーネ]]がプロイセン王[[フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム3世]]の娘だった関係で、[[プロイセン王国|プロイセン]]との同盟を模索する[[7月王政]]期のフランス王ルイ・フィリップの長男で王位継承者であるオルレアン公との縁談が持ち上がった。ヘレーネは[[カトリック教会|カトリック]]信徒である[[オルレアン家]]とは宗旨の違う[[プロテスタント]]信徒であり、また美しくもなかったが、自由主義的な思想の持ち主だった。ヘレーネ自身、非常に野心的なプリンセスで、家族の反対を押し切ってでも将来のフランス王妃の座を逃すまいとした。
 
ヘレーネは[[カトリック教会|カトリック]]信徒である[[オルレアン家]]とは宗旨の違う[[プロテスタント]]信徒であり、また美しくもなかったが、自由主義的な思想の持ち主だった。ヘレーネ自身、非常に野心的なプリンセスで、家族の反対を押し切ってでも将来のフランス王妃の座を逃すまいとした。
1837年5月30日、[[パリ]]郊外の[[フォンテーヌブロー宮殿]]において、オルレアン公と結婚式を挙げた。パリ大司教[[イアサント=ルイ・ド・ケルン]]([[:en:Hyacinthe-Louis de Quélen|Hyacinthe-Louis de Quélen]])が、宗派の違う夫婦の結婚式に[[ノートルダム大聖堂 (パリ)|ノートルダム聖堂]]を使用するのを禁じたため、宮殿を結婚式場に使ったのだった。以後、ヘレーネはオルレアン公爵夫人エレーヌと呼ばれた。
 
1837年5月30日、[[パリ]]郊外の[[フォンテーヌブロー宮殿]]において、オルレアン公と結婚式を挙げた。パリ大司教[[イアサント=ルイ・ド・ケルン]]([[:en:Hyacinthe-Louis de Quélen|Hyacinthe-Louis de Quélen]])が、宗派の違う夫婦の結婚式に[[ノートルダム大聖堂 (パリ)|ノートルダム聖堂]]を使用するのを禁じたため、宮殿を結婚式場に使ったのだった。以後、ヘレーネはオルレアン公爵夫人(妃)エレーヌと呼ばれた。
 
姑の[[マリー・アメリー・ド・ブルボン|マリー・アメリー]]王妃はエレーヌのリベラル傾向やプロテスタント信仰が気に入らず、長男の嫁を嫌った。オルレアン公爵夫妻の夫婦仲は良好で、すぐに2人の息子が生まれ、オルレアン王家の存続も安泰となった。エレーヌはドイツの[[クリスマスツリー]]を飾る習慣をフランスに持ち込んだことで有名である。