「大般涅槃経」の版間の差分

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{{脚注の不足|date=2015年11月}}
[[File:Sui Mahayana Mahaparinirvana Sutra.JPG|thumb|[[隋]]代の『大般涅槃経』写本([[西漢南越王博物館]]蔵)]]
『'''大般涅槃経'''』(だいはつねはんぎょう、{{lang-sa-short|&#x092e;&#x0939;&#x093e;&#x092a;&#x0930;&#x093f;&#x0928;&#x093f;&#x0930;&#x094d;&#x0935;&#x093e;&#x0923;&#x0938;&#x0942;&#x0924;&#x094d;&#x0930;}}(Mahāparinirvāṇa Sūtra、マハーパリニルヴァーナ・スートラ)、{{lang-pi-short|&#x092e;&#x0939;&#x093e;&#x092a;&#x0930;&#x093f;&#x0928;&#x093f;&#x092c;&#x094d;&#x092c;&#x093e;&#x0928;&#x0938;&#x0941;&#x0924;&#x094d;&#x0924;&#x0928;&#x094d;&#x0924; }} Mahaaparinibbaana Sutta(nta)(マハーパリニッバーナ・スッタ(ンタ)<!--[[タイ語]]:mah&#462;prin&iacute;pphaan&aacute;s&ugrave;ttant&agrave; {{lang|th|มหาปรินิพพานสุตตันตะ}}-->)は、[[釈迦]]の[[入滅]](=大般涅槃(だいはつねはん))を叙述し、その意義を説く経典類の総称である{{sfn|岩波仏教辞典|1989|p= 648}}。[[阿含経]]典類から[[大乗経典]]まで数種ある{{sfn|岩波仏教辞典|1989|p= 648}}。略称『'''涅槃経'''』。
 
大乗の『涅槃経』 は、初期の『涅槃経』とあらすじは同じだが、「一切衆生悉有仏性」を説くなど、趣旨が異なる。
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== 原始仏教経典の『涅槃経』 ==
{{see also|大般涅槃経 (上座部)}}
[[釈尊]]の最後の旅からはじまって、[[入滅]]に至る経過、[[荼毘]](だび)と起塔について叙述する経典{{sfn|岩波仏教辞典|1989|p= 648}}。原典に近いテキストとしては、
*[[パーリ語経典]][[長部]]{{sfn|岩波仏教辞典|1989|p= 648}}の『[[大般涅槃経 (上座部)|大般涅槃経]]』(マハー・パリニッバーナ・スッタンタ)
や、漢訳では、
* 『[[長阿含経]]』([[大正蔵]]1)第2経「遊行経」{{sfn|岩波仏教辞典|1989|p= 648}}
* 『'''仏般泥洹経''' (2巻、大正蔵5)
* 『'''般泥洹経'''』(2巻、大正蔵6)
* 『'''大般涅槃経'''』(3巻、大正蔵7)
<ref>{{kotobank|大般涅槃経|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典}}</ref>、計9種の異本があるが、それぞれに後世の脚色が加わっており、どれがより正確かは断言できない<ref>『ブッダ最後の旅』[[中村元 (哲学者)|中村元]] [[岩波文庫]] pp357-367</ref>。元来は『律蔵』中の仏伝の一部であったと考えられている。<ref name ="nakamura et al.">{{cite book |title =岩波仏教辞典 |edition =2 |date =2002-10-30 |editor1-first =元 |editor-1-last =中村 |editorlink1 =中村元 |editor2-first =光司 |editor2-last =福永 |editor3-first =芳朗 |editor3-last =田村 |editor4-first =達 |editor4-last =今野 |editor5-first =文美士 |editor5-last =末木 |publisher =[[岩波書店]] |location =東京都千代田区一ツ橋2-5-5 |isbn =4-00-080205-4 |page =808 |chapter =涅槃経}}</ref>
 
この中では、釈尊が、自分の死後は「法を依(よ)りどころとし、自らを依りどころとせよ」(自灯明・法灯明)といったこと、また「すべてのものはやがて滅びるものである。汝等は怠らず努めなさい」と諭したことなどが重要である。<ref name ="nakamura et al."/>
 
== 大乗発展途上の『涅槃経』 ==
[[大乗]]に至る過渡期のものとして、数種の『涅槃経』が漢訳として現存する{{sfn|岩波仏教辞典|1989|p= 648}}。たとえば『'''遺教経'''』<ref>ゆいきょうぎょう、鳩摩羅什訳、『仏垂般涅槃略説教誡経』、略して『仏遺教経』などとも。大正蔵389。</ref>では、[[釈迦如来|釈迦仏]]が入滅に臨じて、その遺言として教誨を垂れたものである。ちなみに禅宗では特に重んじて仏祖三経の一つとしている。
 
== 大乗の『涅槃経』 ==
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=== 成立年代 ===
[[龍樹]](紀元150年頃に活躍)には知られていないことなどから、この経の編纂には[[瑜伽行唯識派]]が関与したとされ、4世紀くらいの成立と考えられる。原典は失われている<ref>{{kotobank|大般涅槃経|デジタル大辞泉}}</ref>
 
=== 訳本 ===
# 『'''大般泥洹経'''』(だいはつないおんきょう)6巻〔法顕本、六巻本ともいう〕(418)<ref>「泥洹」(ないおん)とはニルヴァーナ{{lang-sa-short|nirvāṇa}}の音写であり、同じニルヴァーナの音写である「涅槃」と同義</ref><ref>{{kotobank|泥洹|精選版 日本国語大辞典}}</ref>、[[法顕]]{{sfn|岩波仏教辞典|1989|p= 648}}と[[仏陀跋陀羅]]訳
# 『'''大般涅槃経'''』40巻〔'''[[北本]]'''{{sfn|岩波仏教辞典|1989|p= 648}}、また'''[[大本]]'''<ref>{{kotobank|涅槃経|日本大百科全書(ニッポニカ)}}</ref>、大本涅槃、大本涅槃経<ref>{{kotobank|涅槃経|精選版 日本国語大辞典}}</ref>ともいう〕(421)、[[三蔵法師]]の[[曇無讖]](どんむせん、どんむしん)訳{{sfn|岩波仏教辞典|1989|p= 648}}
# 『'''大般涅槃経'''』36巻〔'''南本'''{{sfn|岩波仏教辞典|1989|p= 648}}(436)、[[慧厳]]・[[慧観]]・[[謝霊運]]<ref>{{kotobank|涅槃経|百科事典マイペディア}}</ref>により校合訂正した経典。
2の北本は涼で翻訳された事から、3の南本とは宋の時代に翻訳し1と2を統合編纂({{ruby|再治|さいじ}})した事から名づけられている<ref>{{kotobank|涅槃経|百科事典マイペディア}}</ref>。他にチベット訳2種、梵文断片などが現存する{{sfn|岩波仏教辞典|1989|p= 648}}
 
なおインドには焼身品・起塔品・嘱累品があったともいわれ、まだ翻訳されずに伝えられなかったといわれる。そのため未完の経典ともいわれるが、唐の'''若那跋陀羅'''により北本の後を受けて『'''大般涅槃経後分'''<ref>{{kotobank|大般涅槃経|世界大百科事典}}</ref>2巻が翻訳され、遺教・入滅・荼毘・舎利を加えられた。
 
仏教界においては北本がよく引用されるが、基本的には北本と法顕本と統合訂正して『南本涅槃経』が編集されたことから、もっとも内容が整っているとされ、近年では南本を引用する場合も多い。
 
=== 基本的教理 ===
大乗涅槃経の基本的教理は、
# '''如来常住'''(にょらいじょうじゅう)
# '''一切衆生悉有仏性'''(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)
# '''常楽我浄'''(じょうらくがじょう)
# '''一闡提成仏'''(いっせんだいじょうぶつ)
以上の4つを柱として要約される。『涅槃経』は、[[釈迦]][[入滅]]という[[初期仏教]]の涅槃経典と同じ場面を舞台にとり、また[[諸行無常]]という仏教の基本的理念を踏まえながら、如来の[[般涅槃]](はつねはん)は方便であり、実は[[如来]][[常住]]易(へんやく)することがないとして、如来の[[法身]](ほっしん)の不滅性を主張する{{sfn|岩波仏教辞典|1989|p= 648}}。また如来(仏)は涅槃の教法(法)を説く教団(僧)と共に一体で常住し不変である(三宝一体常住不変)と説き、その徳性を[[常楽我浄]][[四波羅蜜(涅槃の]]([[四徳ともいう)]])に見いだし、またそれを理由に、「一切衆生はことごとく[[仏性]]を有する」([[一切衆生悉有仏性]])と宣言する{{sfn|岩波仏教辞典|1989|p= 648}}。この経は、『[[法華経]]』の一乗思想を継承しつつ受け入れ仏性[[如来蔵]]思想によってそれを発展させた。この{{sfn|岩波性は、別の経教辞では[[如来蔵]]ともいう|1989|p= 648}}
 
なお「一切衆生悉有仏性」は、近代の大乗仏教において衆生つまり人間以外の山川草木や動物などすべてにおいて仏性があるという解釈から「一切悉有仏性」とも言われるようになった。
 
また、『法華経』よりも同様、大乗の仏法を誹謗するものに対して厳しい姿勢をとり、これを[[一闡堤]](いっせんだい。{{lang-sa-short|iccantica}}欲望よりなる者、の意)と呼び、仏の教えでも救い難く仏となる可能性をもたない(一切衆生の例外規定)とする{{sfn|岩波仏教辞典|1989|p= 648}}。しかし、後の増広部分(法顕訳にない北本の第11巻以下)ではその主張を緩和し、方便説として{{sfn|岩波仏教辞典|1989|p= 648}}、闡提にも仏性はあり成仏できる可能性はあるとする。この経は4世紀の成立で、[[龍樹]]には知られていない{{sfn|岩波仏教辞典|1989|p= 648}}。
 
なお、この如来常住や常楽我浄は、[[釈迦仏]]が衆生の機根にあわせて教えを説いた仏教の段階的説法の最終形といえる。すなわち[[釈迦仏]]がインドにおいて出世した時、人間はみなこの世が続くものと思っていて、快楽にふけり、我の強い自分勝手な人が多く、穢れた世界であるとして、人間の世界を否定し無常・苦・無我・不浄と説いてきた。またそれが[[諸行無常]]という仏教の基本的理念となっている。しかし人間の世界は無常・苦・無我・不浄であるが、如来とその法や世界こそ永遠である(如来常住や常楽我浄)と『涅槃経』では説いた。また同じく闡提成仏も、それまで仏教では、(仏教を否定する)闡提は成仏しがたい者であるとしていたが、『涅槃経』にいたっては闡提であっても仏性は有しているから成仏する可能性はある(北本の第11巻以下)とする。
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* 下田正弘 『大乗涅槃経(中層)の研究』2005 東京大学
*Kosho Yamamoto, english tr., 1973 [http://www.nirvanasutra.net/convenient/Mahaparinirvana_Sutra_Yamamoto_Page_2007.pdf]
*{{Cite book |和書 |author=[[中村元]]他 |year=1989 |title=岩波仏教辞典 |publisher=岩波書店 |isbn=4-00-080072-8 |ref={{SfnRef|岩波仏教辞典|1989}} }}
 
== 脚注 ==
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