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== 人物・逸話 ==
* 身分意識が強く、西洋銃導入を進言した[[山本覚馬]]を一年間禁足処分に課し、[[秋月悌次郎]]が秀才であったにも関わらず[[左遷]]されたのは下級武士であったからで、西日本側の諸藩の事情に通じていた悌次郎を左遷し、薩摩・長州とパイプを持つ[[神保修理]]を自害に追いやったことなどが会津藩敗北の遠因となった。土佐藩は、[[山内容堂]]の意向により身分の低い[[吉田東洋]](長宗我部旧臣)を参政に抜擢するなど早くから藩政改革を行っており、板垣退助の進言によって軍制改革が断行されたのと比較すると大いに違いがある。会津と戦った[[土佐藩]]の[[板垣退助]]は、これらの惨状を目の当たりにして終生反面教師とし、[[四民平等]]を唱えた。
* 著作の『栖雲記』は、冒頭に鴨長明『方丈記』の記述がある。武田惣角に与えた和歌「知るや人 川の流れを打てばとて 水に跡ある物なら那久耳」は、方丈記の「ゆく川の流れ絶えずして もとの水にあらず…」を引用し、仏教、人生の無常観を語った。
* 著作に『栖雲記』がある。
* [[大東流合気柔術]]の伝承によると、頼母は藩士時代に[[武田惣右衛門]]から御式内等の武芸と陰陽道を学び、明治31年([[1898年]])に霊山神社を訪ねた[[武田惣角]](武田惣右衛門の孫)に御式内を伝授したといが、う。墓石によれば、武田惣右衛門は頼母が生まれる32年前に死去しており、また会津は修験支配力が強く、農村に同業の陰陽師の記録はなく、頼母に合気柔術を教えた可能性は低い。
* 保科近悳の立った写真は身長140センチ、生涯日誌に武術の記録はなく達人ではないと判明した。武田惣角に相談された保科は、官尊民卑の時代に柔軟に生きるため、武田姓と甲斐武田家を結び付ける大東流史実を創作した。護身術の[[御式内]]は隣りの藩士御供番(藩主護衛役)佐藤金右衛門、隣村の易者に真言密教、修験道、気合術(気合・合気)を教えられ、柔術に気の力を導入して合気柔術を創始した。この内容で会津坂下町郷土学習副読本の人物紹介武田惣角は修正されている。明治戸籍で武田姓になり、身分は農、幕末は竹田姓で、先祖が甲斐武田から来た史実は否定的な証拠がある。
* 保科近悳の晩年の証言、『保科藩老戊申戦略談一片聞書』(藩士渋谷源蔵 よると、白河口攻防の作戦は保科の意見は反対され、降伏開城も反対されたとある。<!--これまでとは正反対で、臆病者と揶揄された頼母内容とは逆汚名返上にな内容である。-->
*西郷頼母が語った「中道を行く者の難しさは、右から見れば左に見え、左からみれば右に見られる 」は 名言といわれ、王道の評価がある。