「狗子仏性」の版間の差分

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== 内容 ==
[[仏性]]は、『{{ruby|[[涅槃経]]|ねはんぎょう}}』の「{{ruby|[[一切衆生悉有仏性]]|いっさいしゅじょうしつうぶっしょう}}」からきている{{sfn|禅の本|1992|p=194}}{{sfn|西片|2006|p=4}}。「{{ruby|山川草木悉皆成仏|さんせんそうもくしっかいじょうぶつ}}  {{ruby|草木国土悉有仏性|そうもくこくどしつうぶっしょう}}」ともいい、[[森羅万象]]に[[仏陀|仏]]の性質が宿っていることを示し、仏教<ref>ここでは[[大乗仏教]]をさす。</ref>の基本理念の一つである{{sfn|禅の本|1992|p=194}}。
ある時、[[僧]]が趙州に「狗子([[犬]]の児のこと<ref>{{kotobank|狗子|精選版 日本国語大辞典}}</ref>)に還って[[仏性]]有るやまた無しや」と問と、趙州はにべもなく「無」と答えた{{sfn|朝比奈|1957|p=2}}。その僧は一切衆生悉有仏性を担ぎ出して、[[犬]]にも尊い仏性がありますかと持ちかけた{{sfn|朝比奈|1957|p=2}}。つまり、趙州が仏性が無いと答えれば、[[仏教]]の[[教義]]にもとり、有ると言えばこの醜さはどうだと追求する二股をかけてきた{{sfn|朝比奈|1957|p=2}}。同じ[[質問]]にも、ひたすら自分の疑いを晴らしたさにする質問と、自分については大して問題にせず相手の力を試みるためにする'''{{ruby|験主問|げんしゅもん}}'''があり、僧の質問は験主問の含みがある{{sfn|朝比奈|1957|p=2}}。問を発した[[僧]]は「すべてに仏性がある」という教えに執着するあまりに、ものの見方、考え方が偏っていたと思われる{{sfn|星野・安永|2009|p=201}}。
 
ある時、[[僧]]が趙州に「狗子([[犬]]の児のこと<ref>{{kotobank|狗子|精選版 日本国語大辞典}}</ref>)に還って[[仏性]]有るやまた無しや」と問と、趙州はにべもなく「無」と答えた{{sfn|朝比奈|1957|p=2}}。その僧は一切衆生悉有仏性を担ぎ出して、[[犬]]にも尊い仏性がありますか持ちかけ返ってくると思っのだろう{{sfn|朝比奈西片|19572006|p=24}}。つまり別の考え方では、一切衆生悉有仏性を担ぎ出して問を持ちかけ、趙州が仏性が無いと答えれば、[[仏教]]の[[教義]]にもとり、有ると言えばこの醜さはどうだと追求する二股をかけてきた{{sfn|朝比奈|1957|p=2}}。同じ[[質問]]にも、ひたすら自分の疑いを晴らしたさにする質問と、自分については大して問題にせず相手の力を試みるためにする'''’’’{{ruby|験主問|げんしゅもん}}'''’’’があり、僧の質問は験主問の含みがある{{sfn|朝比奈|1957|p=2}}。問を発した[[僧]]は「すべてに仏性がある」という教えに執着するあまりに、ものの見方、考え方が偏っていたと思われる{{sfn|星野・安永|2009|p=201}}。
これが根底にありながら、趙州は「犬の仏性は[[無]]」といった{{sfn|星野・安永|2009|p=201}}。なぜ趙州はそう答えたかがこの公案を解く鍵であり{{sfn|星野・安永|2009|p=201}}、この基本理念から考えなおせ{{sfn|禅の本|1992|p=194}}、根本に帰ってみなければならないということである{{sfn|山本|1960|p=17}}。
 
これが根底にありながら、趙州は「犬の仏性は[[無]]」といった{{sfn|星野・安永|2009|p=201}}{{sfn|西片|2006|p=4}}。なぜ趙州はそう答えたかがこの公案を解く鍵であり{{sfn|星野・安永|2009|p=201}}、この基本理念から考えなおせ{{sfn|禅の本|1992|p=194}}、根本に帰ってみなければならないということである{{sfn|山本|1960|p=17}}。
 
趙州のいう無は、一般に使う[[有]]という概念に対する無でも、虚無([[ニヒリズム]])の無でもない{{sfn|星野・安永|2009|p=201}}{{sfn|朝比奈|1957|p=2}}{{sfn|山本|1960|p=17}}。有無というような相対的な考え方は[[禅]]では徹底的に戒める{{sfn|星野・安永|2009|p=201}}。「無」は対立的概念の一切ない無、絶対無{{sfn|星野・安永|2009|p=201}}{{sfn|朝比奈|1957|p=2}}、[[空 (仏教)|空]]のことである {{sfn|星野・安永|2009|p=201}} 。
 
この公案は、趙州に質問した僧のような「すべてに仏性がある」というような執着や囚われを解き放って[[分別 (仏教)|分別]]妄想を切って捨てるためのものであり{{sfn|星野・安永|2009|p=201}}、相対的なものの見方を徹底的に排除するのが目的である{{sfn|星野・安永|2009|p=201}}。この公案の眼目は、この無の絶対性を目指して参じていくところにある{{sfn|星野・安永|2009|p=201}}。この公案に取り組んで苦しんだあげくの結論が、本当の自分にとっての仏性なのだろう{{sfn|禅の本|1992|p=194}}。有無も[[主観]][[客観]]もなく絶対的な無に徹した時、[[無我]]無心の境地に達して心の自由と平安が得られる{{sfn|星野・安永|2009|p=201}}。なお、無に帰って観ることを、[[天台宗]]では[[摩訶止観]]という{{sfn|山本|1960|p=17}}
 
=== 提唱、見解 ===
*[[臨済宗]][[妙心寺派]][[管長]]であった[[山本玄峰]]は、本公案について次のように[[提唱]]している : 禅の修行とは、天地と我と同根、万物と我と同一体になるための修行である{{sfn|山本|1960|p=17}}。また、[[六祖慧能]]が「理に明らかにならざれば、身を苦しめて何の益かあらん」と言っているように、人間とはこういうもので、人間の本能を尽すにはこうでなければならないという、本当の道理に明らかになるための修行であり、それ以外のことではない{{sfn|山本|1960|p=17~18}}。そのためには根本智慧をはっきりさせる必要があり、これを趙州は「無」といい、[[白隠慧鶴]]は片手の音を聞けといい、[[五祖法演]]はこの無を頌して「趙州の露刃剣」といって「{{ruby|寒霜光焔々|かんそうひかりえんえん}}、{{ruby|擬議如何|ぎぎいかん}}を問えば、身を分けて両断となす」といい、名刀を振り上げるようにこの無を振り上げ、煩悩妄想をすっきりと叩き殺すべきことを述べている{{sfn|山本|1960|p=18}}。そうでないと、(他人の意見に振り回され)何事も快刀乱麻を立つように了解できない{{sfn|山本|1960|p=18}}。
 
*[[臨済宗]][[円覚寺派]][[管長]]であった[[朝比奈宗源]]は、本公案について次のように[[提唱]]している : 趙州は験主問の小細工に惑わされる人ではない{{sfn|朝比奈|1957|p=2}}ので、けろりと「無」と切って放った{{sfn|朝比奈|1957|p=2}}。僧が験主問によって引っかけようとしたわなには届かない{{sfn|朝比奈|1957|p=2}}。しかしながら、趙州はこの「無」の一字によって、仏性の絶対性、普遍性を、多くの言葉を費やす以上に明瞭に力強く表現した{{sfn|朝比奈|1957|p=2}}。[[無門慧開]]<ref>本記事の公案である「狗子仏性」を含めた公案集『無門関』の作者。</ref>も、[[無学祖元]]<ref>[[京都]]の[[建長寺]]や[[鎌倉]]の[[円覚寺]]に住し、多くの鎌倉武士が[[参禅]]したほか、日本の[[臨済宗]]に大きな影響を与えた。仏光国師。</ref>も[[白隠慧鶴]]もこの公案によって大死一番<ref>開悟</ref>した{{sfn|朝比奈|1957|p=2}}。禅者の目から見ればこの一ヶの無字が一[[大蔵経]]でもあり、全宇宙でもある {{sfn|朝比奈|1957|p=2}} 。
 
=== 五燈会元 ===
中国[[宋 (王朝)|宋]]代の禅書『[[五灯会元|五燈会元]]』(ごとうえげん)の第4には、この続きが書かれている。