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'''村井 顕八'''(むらい けんぱち、或いは むらい あきらはち<ref>[http://www.kwoon.org/viewtopic.php?f=10&t=3957 フランス語サイトに於ける日本の代表的な武道家十六名]</ref>、明治22年(1889年)11月8日?‐没年不明)は、[[北海道]]出身の[[柔道家]](最終[[段級位制#柔道|段位]]は八段)、後に[[八光流柔術]]に転じ師範となった。
旧制中学在学中に柔道参段を取得
その後、[[講道館]]に移った村井は[[三船久蔵]](村井・三船とも当時は五段)と試合を
これらの試合について、のちに師の[[奥山龍峰]](八光流開祖)が緘口令を布いたので、『奥山龍峰旅日記』で明らかにされるまで公表されなかった。
村井はその後に北米や、後世[[グレイシー柔術]]が発祥する南米に柔道を普及するなど八段まで昇段したが、段位を返上して講道館を辞去した。[[戦後]]、八光流柔術に入門し、昭和30年頃に師範を允許されると
==サンボとの関係==
[[ソ連]]の格闘技[[サンボ (格闘技)|サンボ]]草創に関わる出来事として、師である[[苫米地英俊]]<ref>現役時代、唯の一敗のみであったとされる伝説的な柔道家</ref> 率いる村井ら小樽高商柔道部と、[[ロシア]]の柔道家達との[[ウラジオストク|ウラジオストック]]に於ける1917年6月の交流が指摘される事がある。この時ロシア側と同柔道部は五人制で交流戦を
==その他の客観的な戦績==
上述の日露団体戦以外にも、いささか逆説的ながら有意に試合をしていないという行跡を他校の歴史資料<ref>恵迪第五号</ref> や、同時代の専門誌<ref>『有効之活動』1920年1月号</ref> に見出す事が出来る。
戦前の高専大会において六連覇を含め10度の優勝を数えた名門北大予科が、村井の在学期間に相当する1915年~1917年を挟む18年間にあって、他の年度では小樽高商との対抗戦を施行している中、村井が在学していた三年間に限り同試合がおこなわれていない。同18年間、他年度は全て北大予科勝利に終わっているものの、その間ただの一年も中断が
==脚注==
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