「清原和博」の版間の差分

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=== 西武時代 ===
[[ファイル:Kazuhiro Kiyohara 19901013.jpg|サムネイル|西武ライオンズ在籍当時({{by|1990年}}10月13日)、[[川崎球場]]での清原和博]]
高校卒業の年、清原はそのまま西武に入団、背番号は3。ルーキーイヤーの{{by|1986年}}、オープン戦ではプロの洗礼を受け本塁打を1本も打てないまま開幕を迎えるが、打撃フォームの修正を重ね、開幕2戦目(4月5日)の[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]戦の6回表から一塁の守備につき途中出場でプロ公式戦デビューすると、第1打席では[[四球]]、第2打席には[[藤本修二]]からプロ初・初かつ、点をも兼ねる初本塁打を打つ。試合は2対4で負けたが、個人的な活躍から、なおも大喜びしていたため、「味方の負け試合でそんなに天真爛漫に喜ぶやつがあるか」と怒られてしまったという。打たれた藤本は試合後のインタビューで、「本塁打よりもその前の打席で誘い球にも手を出さず、ベテランのようにきっちり四球を選んだことのほうが驚きだった」という内容の言葉を残している(清原はこのことを自著で「自分たちのチーム(南海)が優勢で浮かれていたろうし、なにより自分を新人だと思って手を抜いていただけ。だから単調で読みやすかった」と語っている)。その後は4月8日に8番で初スタメン出場を果たすと以後はスタメンに定着。徐々に打順を上げ、5月27日には早くも5番を任されることとなった。
 
前半戦を打率.252、11本塁打で折り返し、[[1986年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]にはファン投票で1位選出された。高卒新人がオールスターに出場したのは[[1954年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|1954年]]の[[梶本隆夫]]([[オリックス・バファローズ|阪急]])、[[1955年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|1955年]]の[[榎本喜八]]([[千葉ロッテマリーンズ|大毎]])、[[1970年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|1970年]]の[[太田幸司]](近鉄)に次ぐ史上4人目だったが、清原はその中で初めて安打、本塁打を放った選手となった(第1戦で安打、第2戦で本塁打)。第2戦ではMVPを獲得している<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_09july/KFullNormal20090701164.html 【7月20日】1986年(昭61) 高卒ルーキー初!清原和博、初球たたいてMVP] スポニチアネックス</ref>。後半戦だけで20本塁打をマークし、9月には高卒新人初となる[[月間MVP (日本プロ野球)|月間MVP]]を受賞した<ref name="sponichi20071007">{{Cite news|title=【10月7日】1986年(昭61)“新人類”清原和博、新人タイ記録の31本塁打 逆転Vへの狼煙|newspaper=スポニチアネックス|date=2007-10-07|url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_octorber/KFullNormal20070919143.html|accessdate=2012-09-12}}</ref>。同年のチームは調子が上がらず、前半戦は下位を低迷していたものの、清原が調子を上げるのに合わせてチームの成績も上がり、バファローズと激しい優勝争いを演じた。9月27日の近鉄戦では初回に28号を放ち[[豊田泰光]]の高卒新人本塁打記録を33年ぶりに更新すると、8回にも29号を放ち、[[長嶋茂雄]]のルーキーシーズンの記録に並んだ<ref>{{Cite news|title=清原29号、長嶋さんに並んだ - 清原特集 西武ライオンズ復刻ニュース|newspaper=日刊スポーツ|url=http://www5.nikkansports.com/baseball/kiyohara/reprint/lions/entry-67758.html|accessdate=2016-01-13}}</ref>。10月7日のロッテ戦で初の4番に抜擢され、その試合で1点ビハインドの6回、[[田子譲治]]から高卒新人史上最多の31本目の本塁打を放って1959年の[[桑田武]]に並ぶ新人本塁打記録の最多タイ記録を達成<ref name="sponichi20071007"/>。桑田は達成時は23歳、清原は19歳であった<ref name="sponichi20071007"/>。同点で迎えた7回には二死二塁の場面でプロ初の[[故意四球|敬遠]]も経験した<ref name="sponichi20071007"/>。10月9日、2安打1打点で勝利に貢献し、チームの優勝が決定。当時はシーズン130試合制だが、129試合目まで争いがもつれた。この時点で打率.301であったが、翌日のシーズン最終戦では森監督が清原に出場するかどうかの打診をし、清原は「出ます」と出場して3安打を放って打率を.304まで伸ばした。