「三角法」の版間の差分

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: <math>\cos A = \frac{\cos a\,-\,\cos b\,\cos c}{\sin b\, \sin c}.</math>
 
上記式と等価な下記式({{仮リンク|球面三角法における余弦定理|en|Spherical law of cosines}})は、球面三角法における基本的な公式であり、さまざまな公式が下記式から演繹される<ref>{{Cite journal|和書|author = 河瀬和重|year = (2019):|title [http://www.gsi.go.jp/common/000213916.pdf= 球面三角法の簡潔かつ体系的な理解への試み],|journal = 国土地理院時報|volume = 132|pages =115-118|publisher = [[国土地理院]]時報,|url '''132'''= https://www.gsi.go.jp/common/000213916.pdf|ref = {{SfnRef|河瀬|2019}} }}</ref>。
</ref>。
: <math>\cos a= \cos b \cos c + \sin b \sin c \cos A, </math>
: <math>\cos b= \cos c \cos a + \sin c \sin a \cos B, </math>
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直角三角形の3辺の長さの比は、[[測量]]や[[天文学]]の要請によって古代から研究されてきた。[[イエール大学]]の{{仮リンク|イエール大学のバビロニア・コレクション|en|Yale Babylonian Collection|label=バビロニア・コレクション}} No.7289(前2000年頃)には、正方形と2本の対角線が描かれていて、それぞれの長さが[[楔形文字]]により60進法で記されている{{sfn|ノイゲバウアー|1984|pp=30-31}}。これに基づく2の[[平方根]]の[[近似値]]の精度は、10進法で小数点以下5桁まで、現代知られている近似値と一致するほど正確なものであった{{sfn|ノイゲバウアー|1984|pp=30-31}}。前1800年〜前1650年の間のある時期に作られた[[粘土板]](コロンビア大学の[[プリンプトン322|プリムプトン・コレクション No.322]])には、[[ピタゴラスの定理#ピタゴラス数|ピュタゴラスの三ツ組数]]が記されているとも解せる{{sfn|ジョーゼフ|1996|p=161}}。メソポタミアにおいては新バビロニア時代に入ると、天文観測上の必要から角度を数値化するという概念も発展し、円の一周を360°に分割する[[度数法]]が始まった<ref>{{cite book | first=James Hopwood | last=Jeans | title=The Growth of Physical Science | date=1947 | url=https://books.google.com/books?hl=en&lr=&id=JX49AAAAIAAJ&oi=fnd&pg=PA7 | pages=7}}</ref><ref>Aaboe, Asger. Episodes from the Early History of Astronomy. New York: Springer, 2001. ISBN 0-387-95136-9</ref>{{sfn|ジョーゼフ|1996|pp=373-374}}。
 
バビロニアの天文観測の記録は紀元前1世紀まで続いた{{sfn|ジョーゼフ|1996|pp=373-374}}。ヘレニズム時代の[[アレクサンドリア]]の数学者は、おそらくは上述のような精緻な観測記録を利用して、円における[[円周角]]とそれによって定義される[[弦 (数学)|弦]]の長さとの関係に関する体系的な研究を始めた{{sfn|ジョーゼフ|1996|pp=373-374}}。[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]によると、前2世紀、[[ニカイア]]の[[ヒッパルコス]]が7・1/2°刻みの円周角と弦の長さの表を作成したという{{sfn|ジョーゼフ|1996|pp=373-374}}{{sfn|Boyer|1991|p=162}}<ref>Thurston, [https://books.google.com/books?id=rNpHjqxQQ9oC&pg=PA235#v=onepage&q&f=false pp. 235&ndash;236].</ref>{{efn|ヒッパルコスの著作はすべて失われており、記載内容はプトレマイオスなど後世の人の引用から類推されたものである。}}。ヒッパルコスは作成した数表を用いて、球面を平面に[[ステレオ投影]]し、球面上の幾何学的な問題を解こうとしたとみられる<ref>Thurston, [https://books.google.com/books?id=rNpHjqxQQ9oC&pg=PA235#v=onepage&q&f=false pp. 235&ndash;236].</ref>。これに対して、1世紀の{{仮リンク|[[アレクサンドリアのメネラ|en|Menelaus of Alexandria}}]]は、球面三角法を概念化した<ref name="平凡社2002天文学" />。2世紀の[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]はメネラスの球面三角法の考え方を天文学に応用した<ref name="平凡社2002天文学" />。プトレマイオスは、大著『[[アルマゲスト]]』の第1巻11章に{{仮リンク|プトレマイオスの円周角と弦長の表|en|Ptolemy's table of chords|label=詳細な三角法に関する表}}を示した<ref name=toomer>{{Cite book|title=Ptolemy's Almagest|last1=Toomer|first1=G. J.|publisher=Princeton University Press|year= 1998|ISBN =0-691-00260-6}}</ref>。これは本質的にはヒッパルコスのものと同じく、円周角とその弦長の関係を示したものであるが、より正確であり、また、はるかに使いやすかった<ref>Thurston, [https://books.google.com/books?id=rNpHjqxQQ9oC&pg=PA239#v=onepage&q&f=false pp. 239&ndash;243].</ref>。
 
古代インドの数学にメソポタミアやギリシアの影響は比較的少ないが、三角法に関しては例外で、用語や無理数の近似値の類似などの観点から、ギリシアに由来すると推測されている{{sfn|ノイゲバウアー|1984|p=143}}<ref name="平凡社2002数学" />。しかしながら、古代インドに伝わったギリシア天文学及びそれに付随する三角法はヒッパルコスの時代までのものであり、メネラオスやプトレマイオスの球面三角法は伝わらなかった<ref name="平凡社2002天文学" />。5世紀の天文学者[[アーリヤバタ]]が著した『{{仮リンク|アーリヤバティーヤ|en|Āryabhaṭīya}}』は、著者が確実に判明しているインド最古の天文学書である<ref name="平凡社2002アーリヤバタ" />{{sfn|Boyer|1991|p=215}}。同書は2行一連の[[サンスクリット語]]による韻文の形式で書かれ<ref name="平凡社2002アーリヤバタ" />、単位円における円周角の半分と弦の半分(すわなち正弦)との関係についての言及がある{{sfn|中村|室井|2014|pp=130-132}}。ギリシア数学的な円周角と弦長の関係に着目する視点から、円周角と正弦との関係に注目する視点へとパラダイムが転換した。その後、インドにおける三角法は[[バースカラ2世]]や[[ケーララ学派]]により研究が進められ、16世紀ごろまで独自の展開をしたが{{efn|例えば、ケーララ学派においては、14世紀後半に[[マーダヴァ]]が三角関数の[[無限級数展開]]を論じた{{sfn|中村|室井|2014|pp=130-132}}。}}、他地域への影響という点では7世紀の天文学者[[ブラーマグプタ|ブラフマグプタ]]が著した『[[ブラーマ・スプタ・シッダーンタ|ブラーフマ・スプタ・シッダーンタ]]』が大きな役割を演じた<ref name="平凡社2002ブラフマグプタ" />。同書は記憶しやすい韻文の形式で書かれ、単位円における複数の円周角に対する正弦の長さを歌った部分を含む。ブラーフマグプタが亡くなった後、[[シンド地方]]が[[アッバース朝]]の支配下に入り、同地にいた占星術師が『ブラーフマスプタ・シッダーンタ』をアラビアに伝えた。同書のアラビア語への翻訳は、{{仮リンク|イブラーヒーム・アル=ファザーリー|en|Ibrāhīm al-Fazārī|label=ファザーリー父子のどちらか}}と{{仮リンク|ヤアクーブ・イブン・ターリク|en|Yaʿqūb ibn Ṭāriq}}により行われ、770年に『{{仮リンク|シンドヒンド|en|Zij al-Sindhind}}』の名で[[アッバース朝]]のカリフ・[[マンスール]]の宮廷に献上された<ref name="aboutbattani" />{{sfn|ジョーゼフ|1996|pp=373-374}}。
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三角法に関する理論は、8世紀から13世紀にかけて、アラビア語を共通の学術言語とする中世イスラーム世界において、さらなる発展と洗練がなされた<ref name="aboutbattani" />{{sfn|矢島|1977|pp=2-5}}{{sfn|中村|室井|2014|pp=139-142}}。アラビア科学には、アレクサンドリアから[[歴史的シリア|シリア]]の[[アンティオキア]]や[[シャンルウルファ|エデッサ]]、ペルシアの[[ジュンディーシャープール]]へ拠点を移したヘレニズムの学術を承継するのみならず、ペルシアやインドからも積極的に文化を受容し、それらを融合したという特徴がある{{sfn|ジョーゼフ|1996|pp=373-374}}{{sfn|矢島|1977|pp=2-5}}{{sfn|中村|室井|2014|pp=143-147}}。9世紀の[[フワーリズミー]]は前述の『シンドヒンド』を利用して{{仮リンク|ジージュ|en|zij|label=天文表}}を作成した{{sfn|矢島|1977|pp=185-186}}。インドには伝わらなかった『アルマゲスト』も8世紀ごろアラビア語へ翻訳された{{sfn|矢島|1977|p=184}}。中世イスラーム世界の天文・数学者たちは『アルマゲスト』に注釈を付したり、精緻な天文観測に基づいて同書中の天文常数に修正を加えたり精緻化したりした結果、同書に記載されている球面三角法の理論を発展させた<ref>[[#アルマゲスト|『アルマゲスト』]]薮内清の解説 pp.581-583</ref>。このように『アルマゲスト』を出発点にして球面三角法を研究した学者としては、[[アブル・ワファー]]、[[ビールーニー]]、[[ナスィールッディーン・トゥースィー|トゥースィー]]などがいる<ref>{{cite web|url=http://www.iranicaonline.org/articles/abul-wafa-buzjani|title=ABU’L-WAFĀ BŪZJĀNI|work=Encyclopaedia Iranica|accessdate=2017-03-09}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.iranicaonline.org/articles/biruni-abu-rayhan-iii|title=BĪRŪNĪ, ABŪ RAYḤĀN iii. Mathematics and Astronomy|work=Encyclopaedia Iranica|accessdate=2017-03-09}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.iranicaonline.org/articles/tusi-nasir-al-din|title=ṬUSI, NAṢIR-AL-DIN ii. AS MATHEMATICIAN AND ASTRONOMER|work=Encyclopaedia Iranica|accessdate=2017-03-09}}</ref>。9世紀に上部メソポタミアで詳細な天文観測を行った天文学者[[バッターニー]]は、プトレマイオスの占星術書『[[テトラビブロス]]』の注釈を著した占星家でもあったが、独自の{{仮リンク|ジージュ|en|zij|label=天文表}}も作成し、三角関数の概念化と記号化に寄与した<ref name="aboutbattani" />。バッターニーの天文表の中には球面における余弦を求める方法の記載が含まれる<ref name="aboutbattani" />。また、バッターニーはインド由来の正弦を『アルマゲスト』の弦よりも優れているという確信を持って使い、余接と正接を導入した<ref name="aboutbattani" />。
 
中世イスラーム世界は9世紀ごろから複数の政治権力が地方で自立する動き([[ウンマの分裂]])が進行したが、それは[[バグダード]]以外にも学術センターが並び立つ結果も生んだ。カイロでは10世紀後半、[[ファーティマ朝]]のカリフ・[[ハーキム]]が天文観測所を建て、[[イブン・ユーヌス]]がそこの観測記録に基づいて新たな天文表を作成した{{sfn|矢島|1977|pp=196-197}}。その中には三角関数の積和の公式{{efn|<math>2cos(2\cos a)\cos( b) = \cos(a+b)+\cos(a-b)</math>}}に相当する計算を行っている記載がある{{sfn|矢島|1977|pp=196-197}}<ref>{{cite journal|first=David A. |last=King|url=http://articles.adsabs.harvard.edu/cgi-bin/nph-iarticle_query?bibcode=1978JHA.....9..212K&db_key=AST&page_ind=6&plate_select=NO&data_type=GIF&type=SCREEN_GIF&classic=YES |title=Islamic Math and Science|journal=Journal for the History of Astronomy|volume=9|accessdate=2017-04-13}}p.212</ref>。[[コルドバ (スペイン)|コルドバ]]や[[トレド]]の宮廷は{{仮リンク|マスラマ・ビン・アフマド・アル=マジリーティー|ar|مسلمة المجريطي|label=マジリーティー}}や[[アルペトラギウス|ビトルージー]]といった学者を召抱え、三角法を含む天文学を研究させた{{sfn|矢島|1977|pp=197-198}}{{sfn|矢島|1977|pp=206-207}}。13世紀の[[イルハン朝]]の君主[[フレグ]]は[[マラーゲ|マラーガ]]に巨大な天文台を建て、[[ナスィールッディーン・トゥースィー|トゥースィー]]や[[ムヒーッディーン・アル=マグリビー|マグリビー]]により正確な天文観測に基づく[[イルハン天文表|天文表]]を作成させた{{sfn|矢島|1977|p=211}}。アラビア科学において、10世紀には6つの三角関数すべてが出揃い、[[イブン・ハイサム]]が三角法の光学への応用を始めるなど、三角法が天文学から独立した学問として成立した{{sfn|中村|室井|2014|pp=139-142}}。
 
[[File:Bernegger Manuale 137.jpg|thumb|1619年に[[ストラスブール]]で出版された{{仮リンク|三角関数表|en|Trigonometric tables}}({{仮リンク|マティアス・ベルネガー|en|Matthias Bernegger}}制作)]]