「マルクス・アエミリウス・スカウルス」の版間の差分

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またこの年の執政官[[ガイウス・フラウィウス・フィンブリア|フィンブリア]]が任期終了後に告発されたが、スカウルスが弁護して無罪を勝ち取っている{{Sfn|Broughton Vol.1|loc=p.558}}。同じ[[紀元前103年]]には、[[アラウシオの戦い]]で大敗したため護民官[[ガイウス・ノルバヌス]]に国家反逆罪(maiestate)で告発された[[クィントゥス・セルウィリウス・カエピオ (紀元前106年の執政官)|カエピオ]]の弁護も行っているが、この裁判は[[拒否権]]を行使しようとした[[ティトゥス・ディディウス]]ら護民官すら強制排除されるなど暴力的で、スカウルスも石で殴られている<ref>キケロ『弁論家について』2.197</ref>。
 
翌[[紀元前102年]]、ケンソルに就任した[[カエキリウス・メテッルス家]]の二人によってプリンケプス・セナトゥスに再指名された{{Sfn|Broughton Vol.1|loc=p.567}}。更に[[紀元前97年]]{{Sfn|Broughton Vol.2|loc=pp.6-7}}、[[紀元前92年]]にもケンソルの以前訴えてきた護民官アヘノバルブスらに再指名されている{{Sfn|Broughton Vol.2|loc=p.17}}。
 
[[紀元前91年]]頃、スカウルスが[[アナトリア半島|アシア]]でレガトゥスを務めていた期間中に、政務官による恐喝強要規制法もしくは国家反逆罪に触れたとして告発された。どちらも収賄の罪で、[[ミトリダテス6世]]からの収賄は国家を裏切る行為とされた。このことから、[[紀元前93年]]頃アシアに駐在していたのではないかと考えられている{{Sfn|Broughton Vol.2|loc=pp.16-17}}。
 
====同盟市戦争====
[[マリウスの軍制改革]]によって[[ローマ市民]]と同様に兵力を供出していた同盟国の間に不満が高まり、彼らは反乱を起こした。[[紀元前90年]]の護民官クィントゥス・ウァリウス・セウェルス・ヒブリダは、この[[同盟市戦争]]に拍車をかけた全ての人々を国家反逆罪に問う、ウァリウス法(Lex Varia de Maiestate)を通過させた{{Sfn|Broughton Vol.2|loc=p.26}}。戦争中もこの裁判はだけは継続して行われ<ref>キケロ『ブルトゥス』304</ref>、[[ガイウス・アウレリウス・コッタ (紀元前75年の執政官)|コッタ]]が追放された<ref>キケロ『ブルトゥス』305</ref><ref>キケロ『弁論家について』3.11</ref>。スカウルスも被告の一人となったが無罪を勝ち取ったようである<ref>キケロ『セスティウス弁護』101</ref>。ウァリウスは[[ガリア・キサルピナ]]出身のプレブスであり、この裁判でスカウルスは、新参者のウァリウスと自分とどちらが信用できるのかと問いかけたエピソードが残っている{{Sfn|ウィクトル|loc=72}}。ウァリウスは翌年、自らの法によって追放された<ref>キケロ『ブルトゥス』305</ref>。
 
====最期====
恐らく[[紀元前89年]]にもケンソルであった[[マルクス・リキニウス・クラッスス|クラッスス]]の[[プブリウス・リキニウス・クラッスス (紀元前97年の執政官)|父プブリウス]]や、[[ガイウス・ユリウス・カエサル|カエサル]]の[[ルキウス・ユリウス・カエサル (紀元前90年の執政官)|おじルキウス]]によってプリンケプス・セナトゥスに指名された{{Sfn|Broughton Vol.2|loc=p.33}}。この年、以前スカウルスを訴え[[最高神祇官]]になっていたアヘノバルブスが死去している{{Sfn|Broughton Vol.2|loc=p.37}}。スカウルスはこの年もしくは翌[[紀元前88年]]に死去し、後任神祇官に[[ルキウス・コルネリウス・スキピオ・アシアティクス (紀元前83年の執政官)|スキピオ・アシアゲヌス]]が就任したと碑文に残されている{{Sfn|Broughton Vol.2|loc=p.44}}。
 
==人物==
[[マルクス・トゥッリウス・キケロ|キケロ]]の時代にスカウルスの演説はまだその内容が現存しており、ルキウス・フフィディウスによって3冊の[[伝記]]が残されていた。スカウルスは思慮深さと自然ににじみ出る信頼感によって元老院でも父と尊敬されており、キケロはこの伝記について、[[クセノポン]]の[[キュロスの教育]]は優れた作だが、我々の政体や慣習に合うスカウルスのシンプルな誠実さには勝てないと評している<ref>キケロ『ブルトゥス』112</ref>。
 
===家族===
彼には息子がいたが、兵役中に無断行動を取ったことから勘当し、恥辱を感じた息子は自決している{{Sfn|ウィクトル|loc=72}}。彼の2人目の妻は当時隆盛を誇った[[プレブス]]系[[カエキリウス・メテッルス家]]の[[ルキウス・カエキリウス・メテッルス・ダルマティクス|ダルマティクス]]の娘{{仮リンク|カエキリア・メテッラ・ダルマティカ|en|Caecilia Metella Dalmatica}}で、彼女は後に[[ルキウス・コルネリウス・スッラ]]の4人目の妻となっている。この結婚で次の2人の子供が生まれた。
* {{仮リンク|アエミリア・スカウラ|en|Aemilia Scaura}} - [[グナエウス・ポンペイウス]]の2度目の妻
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{{s-ttl|title=[[共和政ローマ執政官一覧|執政官]]|years=''同僚:[[マルクス・カエキリウス・メテッルス]]''<br />[[紀元前115年]]}}
{{s-aft|after=[[マニウス・アキリウス・バルブス (紀元前114年の執政官)|マニウス・アキリウス・バルブス]]<br />[[ガイウス・ポルキウス・カト]]}}
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{{s-bef|before=ルキウス・カエキリウス・メテッルス([[ルキウス・カエキリウス・メテッルス・ディアデマトゥス|ディアデマトゥス]]または[[ルキウス・カエキリウス・メテッルス・ダルマティクス|ダルマティクス]])<br/>[[グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブス (紀元前122年の執政官)|グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブス]]<br />[[紀元前115年]] '''LXII'''}}
{{s-ttl|title=[[共和政ローマ監察官一覧|監察官]]|years=''同僚:[[マルクス・リウィウス・ドルスス]] <br />[[紀元前109年]]}}