「ベルギー植民地帝国」の版間の差分

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'''ベルギー植民地帝国'''(ベルギーしょくみんちていこく、[[フランス語]]:Empire:Colonies colonial belgebelges / ColoniesEmpire belgescolonial belge、[[オランダ語]]:Belgische koloniën、[[英語]]:Belgian colonial empire)は、[[ベルギー領コンゴ]]と[[ルアンダ=ウルンディ]]、および{{仮リンク|天津ベルギー租界|zh|天津比租界}}を擁しており、[[1908年]]から[[1962年]]まで存在していた[[植民地帝国]]である。その領域の98%は、本国の76倍の面積に相当する[[コンゴ自由国]](現在の[[コンゴ民主共和国]])であり、当初は[[ベルギー国王の一覧|ベルギー国王]][[レオポルド2世 (ベルギー王)|レオポルド2世]]の私有地とされていたが、1908年にその主権は[[ベルギー王国]]に移行して名称を「ベルギー領コンゴ」に改めた。これらのほかにも、[[モロッコ]]にあった{{仮リンク|タンジェ国際領域|en|Tangier International Zone}}をフランスなどと共同統治していた。
 
ベルギー国内では海外の所有地に言及する際に「[[帝国]]」というよりむしろ「[[植民地]]」という表現が用いられる傾向があった。加えて、同時代の[[イギリス帝国|英国イギリス]]や[[フランス植民地帝国|フランス]]といった遠く離れた他の植民地とは異なり、ベルギー植民地帝国は「[[皇帝]]」と称する君主を持たなかった<ref>In the Dutch language, the name used is 'Belgische koloniën'. In French the term 'colonies belges' is far more common than 'empire colonial belge'.</ref>。国王が通常は伝統や歴史的結び付きに基いて王国を統治すると規定されるのに対し、皇帝や帝国という表現は他の地域や人々を支配するという含意を持っており、それは取得という意味を含んでいる。
 
== 背景 ==
ベルギー自体は[[1830年]]に[[ネーデルラント連合王国]]から独立し、[[1839年]]に承認された。独立の時点で、[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国|仏両]]や[[7月王政|フランス]]は広大な植民地を有しており、[[スペイン]]、[[ポルトガル]]、[[オランダ]]もすでに潜在的に植民地となる[[勢力圏]]を有していた。
 
このように近隣の欧州各国が海外に植民地と勢力圏を拡張させていた状況もあり、[[1843年]]に初代国王[[レオポルド1世 (ベルギー王)|レオポルド1世]]は、[[ハワイ王国]]を植民地にするために{{仮リンク|ラッド・アンド・カンパニー|en|Ladd & Co.}}と契約を結んだ。しかしラッド・アンド・カンパニーが財政難に直面すると取引は解消された<ref name="evidence">{{cite book |title= Report of the proceedings and evidence in the arbitration between the King and Government of the Hawaiian Islands and Ladd & Co., before Messrs. Stephen H. Williams & James F. B. Marshall, arbitrators under compact |authors= [[John Ricord]], Stephen H. Williams, James F. B. Marshall |publisher= C.E. Hitchcock, printer, Hawaiian Government press |year= 1846 |url= http://books.google.com/books?id=s2iW_IL-mlkC }}</ref>。第2代国王レオポルド2世も植民地獲得に意欲的であったが、ベルギー政府は財源欠如を理由に消極的な姿勢であった。
}}</ref>。二代目国王レオポルド2世も、植民地獲得に意欲的であったが、ベルギー政府は財源欠如を理由に、消極的な姿勢であった。
 
== コンゴ ==