「荒尾善次」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
1行目:
'''荒尾 善次'''('''あらお よしつぐ'''、[[永正]]5年([[1508年]]) - [[天正]]18年[[12月13日 (旧暦)|12月13日]]([[1591年]][[1月8日]] )は[[戦国時代_(日本)|戦国時代]]の[[武将]]。作右衛門。美作守。「閑斎」と号したが、死後の法名は「道圓」である('''注''')
 
[[尾張国]][[知多郡]][[大野城 (尾張国知多郡)|大野城]]([[愛知県]][[常滑市]])主、佐治左馬允為貞の子として生まれ、[[今川義元]]の尾張への侵入により戦死した同知多郡木田城(同[[東海市]])主、荒尾小太郎「空善」の後を継いで「荒尾」姓を名乗ったという。妻は「空善」の娘であり、後妻は[[水野信元]]の娘である(「[[寛政重修諸家譜]]」新訂10巻329項)。
 
[[織田信長]]に仕えて、荒尾村(東海市)を領し、今川勢と対峙して木田城を守った(同前)。しかし[[弘治_(日本)|弘治]]元年([[1555年]])に始まった義元の尾張進攻によって、同3年には知多の諸勢の多くが今川方に投降したといわれており(「松平記」巻1)、[[永禄]]3年([[1560年]])[[桶狭間の戦い]]の際には、善次も同様の立場に置かれていたと考えられる(「知多郡史」上巻254項)。それゆえ戦いの後は隠居し、娘の嫁ぎ先である[[池田氏]]より子を迎えることにして荒尾家を存続させたという(同)。                                              

*'''注'''「道圓」の法名は編纂時の旗本家呈譜によるとする「[[寛政譜]]」の記述からの類推。また出生年については数え83才で[[三河国]]西郡(愛知県[[蒲郡市]])で没したとする同書の記述に拠った。彼の出自「佐治家」の女性が[[久松俊勝]]の子[[久松信俊]](定員)の妻となっているが(「寛政譜」新訂17巻の315項)あるいはこの縁に拠ったものであろうか。

子は善久(小太郎、美作守。信長に仕え[[元亀]]3年([[1572年]])に[[三方ヶ原の戦い]]で戦死。34才)、[[池田恒興]]の妻(はじめ[[織田信時]]の妻となったが、信時自害の後に再嫁。[[池田輝政]]の実母)、'''成房'''(遠海守、但馬守。信長に仕えて「[[長篠の戦い]]」に戦功を挙げ、のち池田恒興、池田輝政に仕える。[[寛永]]7年([[1630年]])卒。75才。妻は[[織田信直]]の娘)、'''隆重'''(志摩守。恒興のち輝政に仕える)。
 
'''成房'''の子「成利」('''荒尾但馬''')が[[鳥取藩]]家老となって[[米子城]]代を務め、また「山就(嵩就)」('''荒尾志摩''')は叔父'''隆重'''の養子となり、鳥取藩士として[[因幡国]][[倉吉市|倉吉]]の地を領した。「成政」(図書頭)は「松平相模守」の家臣となった旨の記述が「[[寛政譜]]」にある。相模守を名乗ったのは鳥取藩[[池田氏|池田家]]であるから、年代から考えて、兄二人と同じく[[池田光仲]]に仕えて、[[鳥取藩]]士となったと思われる。「久成」(母は織田信直の娘)とその子孫は江戸[[旗本]]となっている。