「ザクセン戦争 (ハインリヒ4世)」の版間の差分

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{{Otheruses|11世紀の戦争|8世紀から9世紀にかけての戦争|ザクセン戦争 (カール大帝)}}
'''ザクセン戦争'''(ザクセンせんそう、{{lang-de|Sachsenkriege}}、{{lang-en|Saxon Wars}})は、[[1073年]]にはじまった[[神聖ローマ帝国]]<ref>{{refnest|group="注釈"|「神聖ローマ帝国」の名称が公式に用いられるようになるのは13世紀半ば以降のことであり、それ以前は単に「帝国」と呼ばれていた<ref>坂井(2003)</ref>。本項では便宜上、この名称を用いる。</ref>}}の[[神聖ローマ皇帝|皇帝]][[ハインリヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ4世]]に対する[[ザクセン公国]]の貴族達の反乱。
 
== 概略 ==
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ザリエル家とザクセン人の間の対立の芽は、すでにハインリヒ4世の父[[ハインリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ3世]]の治下において潜在的に形成されていた。
 
「黒王」ハインリヒ3世は、本拠地[[フランケン大公]]領のほか、[[相互相続契約]]などによって[[シュヴァーベン大公]]領や[[バイエルン大公]]領を手に入れ、それを直轄地とし、隣接する[[ボヘミア]]や[[ハンガリー王国|ハンガリー]]まで臣従させた。また、ハインリヒ3世は[[クリュニー会]]の改革運動を支持し、[[ローマ教皇庁]]の改革にもみずから乗り出した。[[1046年]]には、[[ストリ]]の[[教会会議]]で[[ベネディクトゥス9世 (ローマ教皇)|ベネディクトゥス9世]]と[[シルウェステル3世 (ローマ教皇)|シルウェステル3世]]の聖職剥奪と[[グレゴリウス6世 (ローマ教皇)|グレゴリウス6世]]への辞職勧告を決め、信頼するドイツ人[[司教]]を教皇位につけて[[クレメンス2世 (ローマ教皇)|クレメンス2世]]とし、その手で[[戴冠式|戴冠]]された<ref>{{refnest|group="注釈"|ハインリヒ3世は皇帝戴冠式をむかえるまでの7年間、みずから「ローマ王」を名のった。これは、後に神聖ローマ皇帝位継承者がローマ王を名のる習慣の端緒となった。菊池(2003)</ref name=kiku />。}}
 
[[画像:Goslar kaiserpfalz.jpg|thumb|300px|ゴスラーの皇帝居城]]
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=== 衝突のはじまり ===
[[画像ファイル:Harz map.png|300px|right|thumb|ハルツ地方図]]
 
{{仮リンク|ランペルト・フォン・ヘルスフェルト|de|Lampert von Hersfeld}}の[[年代記]]によれば、[[1073年]]6月29日、皇帝に対しザクセン貴族達はゴスラーの皇帝居城([[:de:Kaiserpfalz Goslar|de]])で処遇改善を訴えようとしたが、ハインリヒ4世はこれを拒否し、ザクセン軍が大挙して取り囲むなかを近くのハルツ城に逃げ込んだ。
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== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注釈}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
 
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{{History-stub}}
{{DEFAULTSORTデフォルトソート:さくせんせんそう}}
[[Category:11世紀の戦争]]
[[Category:ドイツの戦争]]