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新興芸術派は、[[平野謙 (評論家)|平野謙]]が「芸術方法において独自なものを打ち出すことができなかった」と評したことからも1932年にはその活動は見られなくなり、やがて阿部知二、小林秀雄、堀辰雄、舟橋聖一ら新心理派あるいは芸術至上主義的傾向の作家軍と、久野豊彦、浅原六朗、吉行エイスケ、龍胆寺雄ら新社会派文学への進展を企図しつつある作家軍に分裂したと言われるようになった。これは[[エロ・グロ・ナンセンス]]的商品を求めたジャーナリズムの犠牲になったと言われ、また伊藤整は「政治的行動主義と反対の、ニヒリスティックな売文的傾向を産ませた結果」によると評している(「昭和文学の死滅したものと生きているもの」<ref>伊藤整『近代日本人の発想の諸形式』岩波文庫 1981年</ref>)。
 
この新興芸術派の2年間ほどの活動期間での作品としては、川端康成「[[浅草紅団]]」や、吉行エイスケの諸作品が特筆されるものとして残されている。「浅草紅団」は当時川端が「いはゆるモダアニズムが風俗にまた言葉に軽佻浮薄な踊りを見せたが、大震災の復興の異様な生き生きしさもあった」という[[浅草]]を、モダニズム文学風な描写を行なった作品で、「[[浅草水族館|水族館]]へ多くの客を呼ぶ役にも立つたものである」と言うように世間の浅草への関心を高めることにもなり、自身もその後いくつかの浅草を舞台にした作品を書いたが、同様の文章での作品はこの一作のみになった<ref>[[十返肇]]「解説」(『浅草紅團』新潮文庫 1955年)</ref>。当時のエロ・グロ・ナンセンスブームによる浅草のエロ・レビュー団で、エノケンこと[[榎本健一]]の在籍していた[[カジノ・フォーリー|第2次カジノ・フォーリー]]は「浅草紅団」中でも取り上げられたことで注目を浴びて人気となり、数多くの同種のレビュー団が生まれて[[浅草オペラ]]出身者が活躍し、また[[高井ルビー]]の吹き込んだ「銀座小唄」や、エロ・ダンスで人気の河合澄子なども「浅草紅団」で取り上げられている<ref>[[毛利眞人]]『ニッポン エロ・グロ・ナンセンス』講談社 2016年</ref>。
 
プロレタリア文学運動は1931年の[[満州事変]]勃発に続く弾圧強化と、1933年の[[小林多喜二]]の獄死などで混乱に向かったが、また1933年には『[[文学界]]』『行動』『[[文藝]]』が創刊され、大正期に活躍した既成作家の復活も含めて、優れた作品が生み出される「文芸復興」と言われる時代となっていった。