「ミミ萩原」の版間の差分

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222.230.95.212 (会話) による ID:80742568 の版を取り消し 「そのためか」なら推測であるので、因果を示すべき
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* [[1981年]]2月、[[横浜文化体育館]]で悪の実力者・[[池下ユミ]]の保持する[[オールパシフィック王座]]に挑戦。強引な[[フォール技#スモールパッケージホールド|スモールパッケージホールド]]で王座を奪取する。前年の試合中にアクシデントで欠けた[[尾骶骨]]の一部が体内にあり、腰の[[ヘルニア]]も悪化していたため引退を勧告されていたが、全日本女子プロレスの主要スタッフ[[松永国松]]によるハードなボクシング式トレーニングで見事再起。体重を10kg近く増加させて臨んだ最後のチャンスをモノにした。同じ日に[[ジャガー横田]]がビューティ・ペアの[[ジャッキー佐藤]]を破り、[[WWWA世界シングル王座|WWWA世界シングルチャンピオン]]となった。この日を境に[[プロレス#女子プロレス|女子プロレス]]界の世代交代が行われ、敗れたジャッキー、池下は同年中に引退。悪役スターとしては同時期に[[デビル雅美]]が台頭し、池下のポジションを受け継ぐ。これによりジャガー、ミミ、デビルの[[トロイカ体制]]が誕生。数年後の、[[クラッシュギャルズ]]による女子プロレスブームに至る礎を築き上げる。
* 1981年より数年間、看板選手として会社側からの売り出しがかけられるようになる。露出度が高く、[[スポーツ用サポーター|サポーター]]さえ着用できない[[ハイレグ]][[水着]]で試合を敢行するセクシー路線を確立。賛否両論を呼んだ。相手に痛めつけられる苦悶の表情は世代を超え、いまなおカルト的な人気を誇っている。この時代の女子プロレスは[[ヒール (プロレス)|ヒール]]が8割方攻めて[[ベビーフェイス (プロレス)|ベビーフェイス]]が一発逆転で勝利を収めるというパターンが多く見られたが、これはミミの持ち味を最大限に活かすために、選手全体で練り上げられた、ひとつの様式といえる。
** その美貌とセクシーさゆえに、試合会場ではリングインしようとする彼女に対するセクハラ行為がかなり酷く、本人もガードするレスラーたちも相当な苦労をしたことを後に語っている。ミミによると、胸やお尻を触られるのは日常茶飯事、酷い時には股間の中に手を入れられてしまったこともあったという。その為か中心選手となる頃には若手レスラーに担がれて入場するようになった
* 1981年9月、オレンジハウスから「ミミ萩原」名義でシングルレコード「スタンド・アップ」発売<ref name="サンデー毎日"/>。試合前に歌と踊りをリングで披露するというビューティ・ペア路線を踏襲。
* 1981年11月23日、「東大なんでもNo1」コンテスト"女子プロスポーツの部No1"に選ばれるなど、若者の注目を浴びる<ref name="サンデー毎日"/>。