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夢島乌 (会話 | 投稿記録)
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当時の桓温の勢力は東晋を覆い、桓温は簒奪の野望を見せていて、[[簡文帝 (東晋)|簡文帝]]の死後に即位した[[孝武帝 (東晋)|孝武帝]]からの禅譲を企てた。しかしこれに対して謝安は[[王坦之]]と共に強硬に反対し引き伸ばし工作を行った。結果、老齢の桓温は死亡、東晋は命脈を保つことになる。桓温の死後の[[373年]]に[[僕射|尚書僕射]]となり、東晋の政権を握る。
 
=== 淝水の戦い ===
[[383年]]、[[華北]]を統一した[[前秦]]の[[苻堅]]は中国の統一を目指して百万と号する大軍を南下させてきた。謝安は朝廷より征討大都督に任ぜられ、弟の謝石・甥の[[謝玄]]らに軍を預けてこれを大破した([[淝水の戦い]])。戦いが行われていた頃、謝安は落ち着いている素振りを周囲に見せるために、客と[[囲碁]]を打っていた。対局中に前線からの報告が来て、客がどうなったかを聞いたところ、「小僧たちが賊を破った」とだけ言って、特に喜びをみせなかった。客が帰った後、それまでの平然とした振りを捨てて、喜んで小躍りした。その時に下駄の歯をぶつけて折ってしまったが、それに気づかなかったという。
 
この功績により、[[:Category:陳郡謝氏|陳郡謝氏]]は[[琅邪王氏]]と同格の最高の[[貴族 (中国)|家格]]とされ、謝安は[[太保]]となった。更に謝安はこの勢いを駆って[[北伐]]を計画していたが、[[皇族]]の権力者[[司馬道子]]に止められる。司馬道子の反対は謝安の功績が大きくなりすぎたことを警戒してのことであり、謝安は中央を追い出されて広陵歩丘に鎮した。
 
385年、65歳で病死。死後、[[太傅]]の官と廬陵郡公の爵位が追贈された。子の謝琰と孫の[[謝混]]も引き続き東晋に仕えた。
 
== 謝安を題材とした作品 ==