「冨士山下宮小室浅間神社」の版間の差分

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** 同富士吉田市内大明見の[[小室浅間神社 (富士吉田市大明見)|阿曽谷宮守神社]]が同時期に同じ社名「小室浅間神社」に改称した。
** 流鏑馬祭を共同で執り行っていたと伝わるが、「勝山記・妙法寺記」などから途絶える明治までにも富士河口湖勝山の流鏑馬に「馬蹄占」「占い」をしていた記録・記述がない。
** 下述にあるが近代「'''下浅間'''」と「'''下宮浅間'''」が混同されていること。
 
また、富士吉田市内には北口本宮冨士浅間神社が上吉田に、この小室浅間神社が下吉田にあるため、北口本宮の呼称「本宮」に対して当神社を「下宮」と呼称しているとの誤解を招きやすい。現代では北口本宮を「上浅間(かみせんげん)」や「上浅(かみせん)」、小室浅間神社を「下浅間(しもせんげん)」や「下浅(しもせん)」と呼ぶことが定着してしまっていることもそれに拍車をかけている。
 
しかし、本来「'''下浅間'''」とは小室浅間神社ではなく北口本宮冨士浅間神社を指している<ref>{{Cite web|url=https://www.pref.yamanashi.jp/fujisan/rebirth/documents/fujisanmichi-omote.pdf|title=富士参詣富士山道表|accessdate=2019.02|publisher=山梨県富士山世界文化遺産保存活用推進協議会}}</ref>。
 
例として、北口本宮の境内図面から吉田口登山道が描かれた[[延宝]]8年([[1680年]])の『八葉九尊図』でもには現北口本宮境内が「下浅間」と記されている<ref>{{Cite journal|author=串田優子 伊藤裕久|year=2006|title=北口本宮冨士浅間神社境内空間の変遷過程|journal=日本建築学会計画系論文集|volume=第604号|page=159−16S}}</ref>。また、[[文化 (元号)|文化]]11年([[1814年]])に成立した甲斐国の地誌である『[[甲斐国志]]』にも、以下の記載がある。
 
{{Quotation|是古社殿ナキ以前富士浅間遥拝ノ地ニ築ク後神祠ヲ創造シ'''小室浅間明神'''ヲ勧請スト云}}
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このことから、吉田口二合目の小室浅間神社(現・冨士御室浅間神社旧本宮)が「'''上浅間'''」、そこから勧請した上吉田の北口本宮が「'''下浅間'''」と呼ばれ、それとは別に下吉田の「'''下ノ宮浅間'''」があることがわかる。
 
上述のことから、「'''下浅間'''」と「'''下宮浅間'''」は別の存在であったが、下宮浅間から北口本宮に上吉田の氏子地域を譲ったこと、富士河口湖町勝山が管理する二合目の冨士御室浅間神社との関係が薄くなり、いつしか「'''上浅間'''」と呼ばれなくなったことで、代わりに北口本宮が上吉田の浅間神社「'''上浅間'''」、下吉田の浅間神社が「'''下浅間'''」と呼ばれるようになり、明治に小室浅間神社と改称したことなどから、近代以降に「'''下浅間'''」と「'''下宮浅間'''」が混同されていった可能性がある<!--明言するにはWikipediaの決まりとして二次資料が必要。-->。
 
== 祭事 ==