「林家こん平」の版間の差分

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兄弟子の[[林家珍平|珍平]]が俳優に転業した後は惣領弟子となり、初代三平が54歳の若さで死去した後は一門を統率する。この際、[[落語協会分裂騒動]]など三平死去の前後に起きた様々な出来事の経緯から三平の弟子たちは「落語界の孤児」とでもいうべき状態となり、結果として元々移籍組で既に[[真打]]だった[[三升家小勝 (8代目)|三升家勝二(現:8代目小勝)]]を除く三平の全弟子がこん平の弟子として直ることになる。かくして、分裂騒動の後遺症が長く尾を引いた落語協会の中で辛酸をなめつつも、[[林家正蔵 (9代目)|林家こぶ平(現:9代目正蔵)]]、[[林家しん平]]といった初代三平の預かり弟子や、[[林家たい平]]、林家いっ平(現:[[林家三平 (2代目)|2代目三平]])ら直弟子など数多くの弟子を育て上げ、初代三平からの系譜を受け継ぐ落語家・芸人たちを事実上の一派としてまとめ上げてきた。
 
実際の性格は『笑点』や高座で見せる豪胆なものではなく、繊細なものであった。それ故、[[ストレス (生体)|ストレス]]を紛らわすために酒量が多くなることがあり、後述の病気の要因の一つになったとも言われている。この他、[[卓球]]が得意なことでも知られており『笑点』で共演する[[三遊亭小遊三]]と共に「[[らくご卓球クラブ]]」を創設。「世界ベテラン卓球大会」にも出場経験がある。
 
[[1985年]][[8月12日]]、当時の他の笑点メンバーである[[三遊亭圓楽 (5代目)|5代目三遊亭圓楽]]、[[桂歌丸]]、[[林家木久扇]](当時、初代林家木久蔵)、[[三遊亭小遊三]]、[[三遊亭圓楽 (6代目)|6代目三遊亭円楽(当時、楽太郎)]]、[[桂才賀|7代目桂才賀(当時、古今亭朝次)]]、[[山田隆夫]]と共に翌日の阿波踊りに参加するべく徳島入りするために当初予約した徳島便が大幅に遅延した上に[[徳島飛行場|徳島空港]]が悪天候のため予約便が条件付き運行となった。そこで1つ後の[[日本航空]]123便{{refnest|group=注|同便ではイベントに同行する予定の数名の広告代理店社員が搭乗した。}}に搭乗して、神戸から船{{refnest|group=注|当時は[[瀬戸大橋]]・[[明石海峡大橋]]・[[神戸空港]]は未開業。}}で移動する案が浮上したが、こん平が「いいじゃないかい、決まった便でゆったり行こうよ、きっと徳島空港に着陸できるよ」と提案したために徳島便に搭乗し、[[日本航空123便墜落事故#搭乗予定を変更して難を逃れた著名人|その墜落事故]]から逃れることができた。同墜落事故については宿泊先のホテルへタクシーで移動中に知ったという<ref>{{Cite book |和書 |author=山田隆夫 |title=ボクに運が巡ってくる55の理由 |publisher=廣済堂出版 |date=2012-05-25 |pages=170&ndash;173 |isbn=9784331516355}}</ref>。