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'''マハーバリプラム'''('''Mahabalipuram'''、[[タミル語]]:மகாபலிபுரம்)は、[[インド]]南部の[[タミル・ナードゥ州]]北東部[[カーンチプラム県]]に所在し、[[ベンガル湾]]に臨むかつての[[港湾都市]]<ref name="kotobank" />。古名は'''マーマッラプラム'''。別名、セブンパゴダ(''Seven Pagodas'')<ref name="kotobank">{{コトバンク|マハーバリプラム}}</ref>。[[チェンナイ]](マドラス)の南約60キロメートルに位置する<ref name="kotobank" />。[[ヒンドゥー教]]の[[聖地]]の一つとして知られ、[[パッラヴァ朝]]時代([[275年]] - [[897年]])に建設された5つの[[ラタ]] (堂) や海岸寺院、ガネーシャ・ラタなど初期ドラヴィダ様ヒンドゥー建築の代表的[[遺構]]が多く所在する<ref name="kotobank" />。
 
== 東西貿易の拠点マハーバリプラム ==
[[画像:Mahabalipuram.jpg|thumb|left|210px|マハーバリプラムの海岸]]
[[4世紀]]から[[9世紀]]にかけて、[[内陸]]の[[カーンチプラム]]には[[パッラヴァ朝]]の[[首都]]がおかれていた<ref name="karashima150">[[#辛島1|辛島(2004)pp.150-153]]</ref>{{refnest|group="注釈"|3世紀末に台頭したパッラヴァ朝もついては、外来民族であるとする説や、{{仮リンク|カダンバ朝|en|Kadamba Dynasty}}同様北インドから来住した政権とみる説もあるが、その出自の詳細については不明である<ref name="karashima150" />。}}。パッラヴァ朝の4世紀から[[5世紀]]にかけては[[マイスール]]方面に興った{{仮リンク|カラブラ朝|en|Kalabhra dynasty}}の勢力下にあったものと考えられ、詳細の不明な点も多いが、[[6世紀]]後半に現れた{{仮リンク|シンハヴィシュヌ|en|Simhavishnu}}王(在位:[[560年]] - 580年)は[[ヒンドゥー教]]信仰を持ち、カラブラ勢力を打ち破って領土を[[カーヴェーリ川]]流域に広げた<ref name="karashima150" />{{refnest|group="注釈"|シンハヴィシュヌの父({{仮リンク|シンハヴァルマン3世|en|Simhavarman III}})と母は、[[ジャイナ教]]の信奉者であった<ref name="karashima150" />。}}。シンハヴィシュヌはさらに、[[パーンディヤ朝]]や[[スリランカ]]([[セイロン島]])の統治者とも争い、その後継者の{{仮リンク|マヘーンドラヴァルマン1世|en|Mahendravarma I}}(在位:580年 - [[630年]])の時代には{{仮リンク|バーダーミ|en|Badami}}の[[前期チャールキヤ朝|チャールキヤ朝]]との抗争が始まった<ref name="karashima150" />。
 
カーンチプラムの東65キロメートルに位置し、ベンガル湾に臨むマハーバリプラム(マーマッラプラム)は、6世紀以降、パッラヴァ朝における東西貿易(「[[シルクロード#海のシルクロード|海のシルクロード]]」)の一大拠点として栄え、町には数多くのヒンドゥー教寺院が建立された<ref name="kotobank" />。みずから文人と称したマヘーンドラヴァルマン1世の時代には岩窟寺院に新しい建築様式が生み出されるなど、文化の面で顕著な発展がみられると評される<ref name="karashima150" />。その子{{仮リンク|ナラシンハヴァルマン1世|en|Narasimhavarman I}}(在位:630年 - [[668年]])の治世にはバーダーミのチャールキヤ朝より首都カーンチプラムが攻撃を受けるが、これを撃退して逆にバーダーミを占領した<ref name="karashima150" />。唐僧[[玄奘]]が南インドを旅行したのは、ちょうどこの時期にあたる<ref name="karashima150" />{{refnest|group="注釈"|玄奘がが南インドを旅したのはバーダーミ陥落前であり、彼はカーンチプラムやバーダーミについての記録を残している<ref name="karashima150" />。}}。パッラヴァ朝は[[7世紀]]末にチャールキヤ朝とパーンディヤ朝の挟撃を受けたが、{{仮リンク|ナラシンハヴァルマン2世|en|Narasimha varma II}}(在位:[[700年]] - [[728年]])の代には平和と繁栄を取り戻し、マハーバリプラムの海岸寺院やカーンチプラムの{{仮リンク|カーンチのカイラーサナータ寺院|en|Kanchi Kailasanathar Temple|label=カーラーサナータ寺院}}などのヒンドゥー建築、また文学においても水準が高いものが生まれたとされる<ref name="karashima150" />。
 
パッラヴァ朝におけるすぐれた建築様式は[[タミル人|タミル商人]]たちによって、[[スリランカ]](セイロン島)や[[東南アジア]]各地にまで伝えられた一方、軍事的にはパッラヴァ朝と対立した[[デカン高原]]の[[前期チャールキヤ朝]](バーダーミのチャールキヤ朝)の建築、とくに[[パッタダガル]]のヒンドゥー建築にも大きな影響をあたえた。
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=== 建造物群の示すもの ===
6世紀以降のパッラヴァ朝、チャールキヤ朝、パーンディヤ朝の三王国抗争時代の南インドは、文化的には新しい発展をとげた時代である<ref name="karashima156">[[#辛島1|辛島(2004)pp.156-158]]</ref>。北インドの[[アーリア人]]文化の南インドにたいする影響は紀元前の[[アショーカ王]]の時代からみられるが、4世紀から5世紀にかけての[[グプタ朝]]における新しいヒンドゥー文化もまた南インドにもたらされ、それまでの[[仏教]]や[[ジャイナ教]]あるいはドラヴィダ系固有の信仰にかわって浸透していった<ref name="karashima156" />。それとともに、[[シヴァ神]]、[[ヴィシュヌ神]]などの新しい神格、[[リンガ]]崇拝や[[化身]]思想といった北インドの[[グプタ朝]]文化の諸要素は南インド固有の伝統文化と融合し、さらに新しい文化の形成が促されたのである<ref name="karashima156" />{{refnest|group="注釈"|そのひとつの現れとしては、[[バクティ]](信愛・帰依)信仰がある<ref name="karashima156" />。}}。パッラヴァ朝やチャールキヤ朝では、グプタ朝のもとに完成されたヒンドゥー教的社会秩序を範とした統治がなされたものの同時代の北インドの諸地域に比較すれば柔軟性があったからであり、これは逆に北インドのヒンドゥー思想に対しても影響をあたえたのである<ref name="karashima79">[[#辛島|辛島(1991)pp.79-82]]</ref>
 
マハーバリプラムの建造物群についていえば、石窟を中心とする[[古代]]から石造を主とする[[中世]]への[[建築史]]上の転換がみられる点が注目される。上述の、石窟寺院が未完成のまま残されていることは、その間の事情を示すものと考えられる。建造物群は、同一箇所において、石窟寺院、石彫寺院、石造寺院の順で推移したことを示し、また、この地域が南インドのヒンドゥー建築を主導していた地域であったことをも示す点できわめて重要な[[考古資料|資料]]となっている。
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{{Reflist|group=注釈}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
 
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=[[辛島昇]]|editor=辛島昇|year=2004|month=3|chapter=南インド社会の発展|title=南アジア史|publisher=[[山川出版社]]|series=新版世界各国史7|isbn=4-634-41370-1|ref=辛島1}}
* {{Cite book|和書|author=辛島昇|year=1991|month=8|chapter=言語と民族のるつぼ|title=インドの顔|publisher=[[河出書房新社]]|series=生活の世界歴史5|isbn=4-309-47215-X|ref=辛島2}}
* {{Cite book|和書|author=[[宮地昭]]|year=2009|origyear=1981|month=10|title=インド美術史|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=978-4642063555|ref=宮地}}
* {{Cite book|和書|editor=辛島昇・[[前田専学]]・江島惠教ら監修|year=1992|month=10|title=南アジアを知る事典|publisher=[[平凡社]]|isbn=4-582-12634-0|ref=知る事典}}