「エーリヒ・マリア・レマルク」の版間の差分

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== 生涯 ==
===生い立ちと従軍===
[[1898年]][[6月22日]]、[[ドイツ帝国]]の構成国であった[[プロイセン王国]]ハノーファー地方にある[[オスナブリュック]]に、エーリヒ・パウル・レマルク(''Erich Paul Remark'')として生まれた。友人の{{仮リンク|ハンス=ゲルト・ラーベ|de|Hanns-Gerd Rabe}}によると、曽祖父のヨハン・アダム・レマルクが、[[1789年]]に[[アーヘン]]でフランス人の家に生まれたことが判明している<ref>Jolana Landová: ''Exil, Krieg und Flucht in Frankreich zwischen 1933 und 1941, dargestellt an ausgewählten Werken deutscher Schriftsteller'', Karlsuniversität in Prag, 2009, S. 46.</ref>
 
レマルク家は[[カトリック]]を信仰していた<ref name="Neues">[[秦豊吉]]訳『[[西部戦線異状なし]]』412p-419p([[新潮文庫]] [[1955年]])</ref>。父ペーター・フランツ・レマルク<ref>{{cite web|first=|last=|author=Robertson, William|authorlink=|title=Erich Remarque|url=http://remarque.org/about_remarque.html|archiveurl=|work=|publisher=|location=|trans_title=|doi=|date=|year=|archivedate=|accessdate=2009-06-25|quote=}}</ref>(Peter Franz Remark)は[[製本]]を仕事としており<ref name="Neues"></ref>、典型的な[[労働者階級]]であった。経済的に豊かではなかったものの学業に秀でており、[[ギムナジウム]]に進学して勉学に取り組み、また16歳の時から詩作や文芸なども趣味にしていた。在学中に[[第一次世界大戦]]が勃発、それから約3年後が経過して18歳になった際に学校の教師に説得され、級友達と共に[[ドイツ軍|ドイツ帝国軍]]に志願した。
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[[1929年]]、第一次世界大戦に従軍する兵士達の姿を描いた戦争小説『[[西部戦線異状なし]]』を発表、大ベストセラーとなって<ref>{{Cite web |url = https://kotobank.jp/word/西部戦線異状なし-86410 |title = ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説 |publisher = コトバンク |accessdate = 2018-08-14 }}</ref>31歳にして人気作家の仲間入りを果たした。この作品の主人公パウルは自身を投影した人物と考えられている。各国語にも翻訳され、早くも翌年には[[ハリウッド]]で映画化されて[[アカデミー賞]]を受賞している。[[1931年]]、敗戦後の社会不安の中を生きる復員兵達を描いた『還り行く道』を発表する。しかしこの頃になると[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]の台頭が始まり、右傾化するドイツで反戦的との批判を受けた事から身の危険を感じて[[1932年]]に[[スイス]]へ亡命した。
 
[[1933年]]、同じ退役軍人であった[[アドルフ・ヒトラー]]が政権を握ってからは予想通りに自身への批判が展開され、「レマルクは[[フランス人|フランス系]][[ユダヤ人]]の末裔だ」「レマルクというのは偽名で、本当の名前は[[クラーマー|クラマー]]({{lang-de-short|Kramer}})だ」(レマルクの本名を逆に綴ったもの)といった虚偽内容に基づく[[プロパガンダ]]が広まり、妹[[強制収容所:de:Elfriede (ナチス)Scholz|強制収容所エルフリーデ]]は[[人民法廷]]に送られ([[1943年]]に処刑)、書籍は[[ナチス・ドイツの焚書|焚書]]処分を受けた。[[1938年]]、ドイツ国籍を剥奪され、翌年に[[アメリカ合衆国]]へ[[亡命]]した。[[第二次世界大戦]]後の[[1947年]]にアメリカ国籍を取得している。妹の死を[[1946年]]に知ったレマルクは、[[強制収容所 (ナチス)|強制収容所]]の囚人たちを題材にした『{{仮リンク|生命の火花|de|Der Funke Leben}}』を彼女に捧げた。戦後はスイスとアメリカを往復する日々を送った
 
ナチス政権下で迫害される人々を描く『汝の隣人を愛せ』の姉妹篇で[[第二次世界大戦]]前夜の[[パリ]]を舞台にした『[[凱旋門 (小説)|凱旋門]]』が発表されると、登場人物の飲む[[カルヴァドス]]が世界的に流行となるなど、二度の世界大戦を描いた作家としてその存在は不動となった。映画版『[[愛する時と死する時]]』(1958年)では、[[ゲシュタポ]]に追われる教師ポールマン役で友情出演している。ドイツでの再評価も行われ、[[1967年]][[西ドイツ]]政府から[[ドイツ連邦共和国功労勲章]]大十字章を授与されている。ただし、生涯ドイツ国籍は回復されなかった
 
[[1970年]][[9月25日]]、スイスのロカルノ滞在中に[[動脈硬化症]]に起因する[[大動脈瘤]]で死去した。1991年、故郷オスナブリュック市で「レマロカク平和賞」が設立された。ノ近郊の[[:en:Ronco sopra Ascona|Ronco sopra Ascona]]の
Cimitero di Ronco sopra Asconaに埋葬され、[[1990年]]に亡くなった妻の[[ポーレット・ゴダード]]も隣に埋葬された。[[1991年]]、故郷オスナブリュック市で「レマルク平和賞」が設立された。
 
==私生活==