「ウジェーヌ1世・ド・リーニュ」の版間の差分

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'''ウジェーヌ1世・フランソワ・シャルル・ラモラル・ド・リーニュ'''('''Eugène Ier François Charles Lamoral, {{8e|prince}} de Ligne''', [[1804年]][[1月28日]] - [[1880年]][[3月20日]])は、[[ベルギー]]の貴族、外交官、政治家。第8代リーニュ公、アンブリス公及びエピノワ公。スペインの[[グランデ]]。
 
リーニュ公世子ルイ・ウジェーヌ(1766年 - 1813年)とその妻の伯爵令嬢ルイーズ・ヴァン・デル・ヌート・ド・デュラ(1785年 - 1863年)の間の長男として生まれた。1813年に父が、翌1814年祖父[[シャルル・ジョゼフ (リーニュ公)|シャルル・ジョゼフ]]が相次いで世を去ったため、10歳でリーニュ公家の家督を継いだ。

1830年の[[ベルギー独立革命]]では新生国家ベルギーの国王候補の1人に推されるが、辞退した。1837年、ベルギー王[[レオポルド1世 (ベルギー王)|レオポルド1世]]の名代として、レオポルドの姪[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]]のイギリス女王戴冠式に出席。1842年から1848年まで、在仏ベルギー全権公使としてパリに赴任する。

1851年に上院議員となり、翌1852年から1879年まで長く上院議長を務めた。1879年、当時のベルギー政府の自由主義政策に反発し上院議長を辞職、翌年死去した。
 
== 子女 ==
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*'''アンリ'''・マクシミリアン・ジョゼフ・シャルル・ルイ・ラモラル(1824年 - 1872年) - 1851年伯爵令嬢マルグリット・ド・タレーラン=ペリゴールと結婚、女優[[サラ・ベルナール]]との間に私生児{{仮リンク|モーリス・ベルナール|fr|Maurice Bernhardt}}をもうける
**{{仮リンク|ルイ・ド・リーニュ|label='''ルイ'''・ウジェーヌ・アンリ・マリー|fr|Louis de Ligne}}(1854年 - 1918年) - 第9代リーニュ公、精神疾患となったメキシコ皇后[[シャルロッテ・フォン・ベルギエン|シャルロット]]の保護監督者
***マリー=シュザンヌ(1885年 - 1971年) - 1906年トゥルン・ウント・タクシス侯子[[アレッサンドロ・デッラ・トッレ・エ・タッソ|アレクサンダー]]と結婚
**マリー=メラニー(1855年 - 1931年) - 1875年ボーフォール=スポンタン公爵フレデリック・ジョルジュと結婚
**{{仮リンク|エルネスト・ド・リーニュ|label='''エルネスト'''・アンリ・ルイ・ラモラル|fr|Ernest de Ligne}}(1857年 - 1937年) - 第10代リーニュ公
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**[[アンリ=フロラン=ラモラル・ド・リーニュ|'''アンリ'''・フロラン・ウジェーヌ・フランソワ・ジョゼフ・ラモラル]](1881年 - 1967年) - 1910年シャルロット・ド・ラ・トレモイユと結婚、ナポリ王位・[[エルサレム国王一覧|エルサレム王位]]請求権保有者となる
*'''エドゥアール'''・アンリ・オーギュスト・ラモラル(1839年 - 1911年) - 1866年オーガスタ・カニンガムと結婚、1874年ゾルムス=ブラウンフェルス侯女オイラリー<ref>[[テキサス州]][[ニューブローンフェルズ (テキサス州)|ニューブローンフェルズ]]の開拓指導者であったゾルムス=ブラウンフェルス侯子{{仮リンク|カール・ツー・ゾルムス=ブラウンフェルス|label=カール|de|Carl zu Solms-Braunfels}}の娘。</ref>と再婚
**'''エレオノール'''・マリー(1877年 - 1959年) - 1907年トゥルン・ウント・タクシス侯子[[フリードリヒ・ラモラル・フォン・トゥルン・ウント・タクシス|フリードリヒ]]と結婚
*'''イザベル'''・エドウィッジ・マティルド・ウジェニー(1840年 - 1858年)
*'''マリー・ジョルジーヌ'''・ソフィー・エドウィッジ・ウジェニー(1843年 - 1898年) - ドゥードヴィル公爵{{仮リンク|ソステーヌ2世・ド・ラ・ロシュフコー|fr|Sosthène II de La Rochefoucauld}}と結婚、[[ウィリアム・アドルフ・ブグロー]]の作品『[[ヴィーナスの誕生 (ブグロー)|ヴィーナスの誕生]]』のモデル