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叢雲7 (会話 | 投稿記録)
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[[斯波義達]]を隠居に追い込んだ[[織田達勝]]が足利義維派になると、清康は今川・織田両家を敵に回すことになるが、今川氏が幼い当主[[今川氏輝]]である隙に尾張へ出兵を考えるようになる。この出兵により、織田達勝と親しく織田信定の娘を正室に迎え、かつ宗家に従順ではない[[松平信定]]との関係が悪化する。
 
[[天文 (元号)|天文]]4年([[1535年]])、甲斐の[[武田信虎]]に今川氏を、[[織田信秀]]には[[西美濃三人衆|美濃三人衆]]、内応してきた織田信光と連携して、清康は守山に出兵する<ref>三河物語では1万余、松平記では雑兵1000余騎。</ref>。この無謀な出兵に対し老臣は諫めた<ref>[[朝野旧聞裒藁]]によると[[織田信光]]、大給[[松平親乗]]、長沢松平上野介、小河の[[水野信元]]は松平信定の婿であり、長陣は危険とするのが理由としている。</ref>。また、この戦いは織田信秀と戦いを続ける織田藤左衛門尉(当時は[[織田寛故]]か)を支援するために出陣したとされている<ref>柴裕之「桶狭間合戦の性格」黒田基樹 編『シリーズ・戦国大名の新研究 第1巻 今川義元』(戎光祥出版、2019年6月) ISBN 978-4-86403-322-0 P296.</ref>。
 
そして、守山布陣の翌12月5日早暁、清康の本陣で馬離れの騒ぎが起こった。これを[[阿部正豊]]は、父が清康に殺されたためであると勘違いし、本陣にいた清康を唐竹割りに背後から惨殺したとされる。正豊はその場で殺され、主君を失った松平軍は四散岡崎に撤退する。
 
== 動機 ==
[[ファイル:Matsudaira Kiyoyasu.jpg|thumb|暗殺された松平清康]]
清康の家臣である[[阿部定吉]]が、親織田氏勢力に加わるという噂があった。清康はこれを信じていなかったようだが、家臣の多くは定吉に対して疑念を抱いていたらしい。{{要出典|date=2018年3月|}}このため、定吉は嫡男の正豊を呼んで、「もし自分が謀反の濡れ衣で殺されるようなら、これを殿に見せて潔白を証明してほしい」と、誓書を息子に手渡していた。
 
後年、風説を流布したのは、後に織田信秀の妹を自分の長男・清定の妻に迎えさせてその縁戚となった[[松平信定]](清康の叔父、[[桜井松平家]])であったとされるが、このときは、出陣していなかった{{Efn|平野明夫はこの出兵を織田ではなく松平信定への出兵とする{{Sfn|平野|2002|pp=281-283}}。また、松平信定が出陣してこなかったのは撤退を目的としており目的を果たしたからだとする{{Sfn|平野|2002|p=300}}。}}。
朝野旧聞裒藁によると清康がまだ安城にいた頃、松平信定が清康の家臣・落合嘉兵衛を咎めたところ、落合の答弁が見事で清康は500貫文加増したという{{Efn|この話の真偽、具体的な状況は分からないものの、清康が一門よりも被官を優遇していた傍証になると平野明夫は指摘している{{Sfn|平野|2002|pp=294-295}}。}}
 
天文6年(1537年)6月に、戦国大名・[[今川氏]]や、[[吉良氏]]の介入があったためか、信定は、岡崎城を退去して、桜井城に戻った。
後年、広忠に許しを乞うた(桜井松平家の直系子孫は、諸侯に一戸が列して、[[摂津国|摂津]][[尼崎藩]]主などとなる)。
 
== 事件後 ==
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本事件にはいくつかの不審な点がある。
 
阿部正豊実行犯の父である阿部定吉の事後処遇であるが、何ら咎められる事もないばかりか、その後は殺された松平清康の息子である広忠の家臣として三河衆の統率を任されている。当時の慣行では家中不始末にしたがえば連座によって[[処刑]]。そうでなくとも何らかの咎めを受けるはずである。
ただし、一説では定吉は息子の凶行に対する責で自害を試みたが、それを広忠が止めたために定吉は広忠に従臣したと説明されている。
(阿部氏の系子孫は、諸侯に二家が列して、[[備後国|備後]][[備後福山藩|福山藩]]主・[[陸奥国|陸奥]][[棚倉藩]]主などとなる)
正豊をその場で殺害成敗した[[植村氏明]]であるが、後年、広忠が同じように[[暗]]された時にも、実行犯である[[岩松八弥]]をその場で成敗している。
二代の主君が暗殺され、それを同一人物が成敗した事を単なる偶然ではないとする説もある。
ただし、そもそも広忠の死因には諸説あり、また「岩松八弥が広忠を襲った」とする説もその顛末には諸説ある。