「ジャン1世 (ベリー公)」の版間の差分

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豪胆公の息子で甥[[ジャン1世 (ブルゴーニュ公)|ジャン1世]](無怖公)がオルレアン公との対立を継続した際も[[1405年]]に両者を和睦させたが、[[1407年]]にオルレアン公が無怖公の刺客に暗殺されると憤慨して無怖公を糾弾、翌[[1408年]]に一転して彼を政権に呼び戻すが、[[1410年]]にオルレアン公[[シャルル・ド・ヴァロワ (オルレアン公)|シャルル]]、[[ブルターニュ公国|ブルターニュ]][[ブルターニュ君主一覧|公]][[ジャン5世 (ブルターニュ公)|ジャン5世]]、[[ヴァロワ=アランソン家|アランソン伯]][[ジャン1世 (アランソン公)|ジャン1世]]、アルマニャック伯[[ベルナール7世 (アルマニャック伯)|ベルナール7世]]など大諸侯や姻戚関係にある貴族達と[[ジアン同盟]]を結成した。以後[[アルマニャック派]]と名を変えイングランドへ援軍派遣を打診しつつ無怖公ら[[ブルゴーニュ派]]とフランス各地で戦い、[[1413年]]に無怖公が[[パリ]]の民衆暴動で退去した後にパリを奪ったが、[[1415年]]にイングランド軍が乱入し[[アジャンクールの戦い]]でアルマニャック派が惨敗、ルイ王太子が死去して弟[[ジャン・ド・ヴァロワ (トゥーレーヌ公)|ジャン]]が王太子として無怖公に擁立されると、アルマニャック伯をパリへ呼び出し、1416年に75歳で没した。息子に先立たれていたため所領の多くは王領に編入され、[[1417年]]にジャン王太子亡き後に選ばれた[[シャルル7世 (フランス王)|シャルル]]王太子(後のシャルル7世)はブールジュを根拠地にイングランドと対峙することになる<ref>エチュヴェリー、P65 - P75、P78 - P88、P97 - P98、城戸、P95 - P101、P123、樋口、P41 - P45、P51 - P56、佐藤、P113 - P121。</ref>。
 
政治以上に、ジャン1世は美術品の[[コレクション|蒐集家]]や芸術家の[[パトロン]]として知られている。[[リンブルク兄弟|ランブール兄弟]]に『[[ベリー公のいとも豪華なる時祷書]]』を製作させたほか、さまざまな貴金属・工芸品・彩飾写本を所有していた。建築にも熱中し17におよぶ城館を手掛け、リュジニャン城やブールジュの教会など改築事業やコレクションに厖大な財産を投じるあまり、ベリー公領はフランス中で最も税が重い地域になり、ジャン1世の歿後相当な額の負債が残されたという<ref>樋口、P61 - P70、佐藤、P134 - P135。</ref>。
 
== 結婚と子供 ==
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[[Category:ヴァロワ家|しやん1 へり]]
[[Category:百年戦争の人物|しやん1 へり]]
[[Category:美術品収集家]]
[[Category:美術のパトロン]]
[[Category:1340年生]]
[[Category:1416年没]]