「京阪電気鉄道」の版間の差分

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[[1910年]](明治43年)[[4月15日]]に最初の路線として大阪・[[天満橋駅|天満橋]] - 京都・五条(現・[[清水五条駅|清水五条]])間が開業した。[[阪神電気鉄道]]などと同様に[[軌道 (鉄道)|軌道]]特許で開業したため、当初は[[併用軌道]]や急曲線が至る所にあり、「京阪電鉄“カーブ”式会社」とも揶揄されたほどであったが、それを克服するため様々な技術開発が行われた。また集客策として10月から12月にかけて香里園にあった香里遊園地で『[[菊人形]]展』を開催、1912年からは枚方市に隣接する1万m<sup>2</sup>を買収(のちの[[ひらかたパーク]])して10月6日から11月25日にかけて菊人形展が開催された。
 
1911年10月(明治44年)には森小路(現在の千林に相当) - 香里(現・香里園)間の沿線で電灯電力供給事業を開始。翌1912年には摂津電気を買収し淀川右岸への電力供給事業を手に入れ、1921年(大正10年)7月に[[和歌山水力電気]]を、1926年(大正15年)12月に[[日高川水力電気]]を合併し、京阪沿線だけでなく和歌山県の電力供給の約75パーセントを京阪が供給することとなった。
 
[[1922年]]ごろより営業エリアの滋賀県[[琵琶湖]]周辺への拡大を狙い京津電気軌道との合併交渉を開始するが、京津電気軌道の一部役員が[[京都電燈]]との合併を望み、話し合いの結果、電力供給は京都電燈へ売却、軌道部門は京阪電鉄に合併されることが決まり、[[1925年]]2月に京津電気軌道を合併。続けて[[琵琶湖汽船|湖南汽船]]から増資を引き受けて[[1926年]]7月に湖南汽船を子会社化した。これに対抗して大津電車軌道・湖南鉄道・太湖汽船は合併して[[太湖汽船|琵琶湖鉄道汽船]]を設立。しかしこうした争いは「双方にマイナスになる」と、湖南汽船の社長の仲介により琵琶湖鉄道汽船との合併交渉が進められ、鉄道部門の大津電車軌道部分を京阪へ、湖南鉄道部分は別会社の八日市鉄道(のちに[[近江鉄道]]に合併)として独立、船舶部門は湖南汽船に譲渡して(新)太湖汽船(のちの[[琵琶湖汽船]])となった。これにより琵琶湖を自社の営業エリアに収めた(京阪の社史では「湖上制覇」と表現している)。
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** 12月:[[京阪グラウンド|寝屋川運動場]]用地として、4万9,500m<sup>2</sup>を買収。
* [[1922年]](大正11年)
** [[1月29日]]:[[和歌山水力電気]]の合併を決定。
** 1月:寝屋川運動場の建設工事を着工。
** [[2月8日]]:運動場前臨時駅の設置が認可。
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** 10月29日
*** 監査役に永田仁助が就任。
*** [[日高川水力電気]]の合併を決定。
*** 京津電気軌道から継承した電気供給事業、ならびに水力発電所の京都電燈への譲渡を決定。
** [[11月3日]]:日高川水力電気と合併契約を締結。