「安宅産業破綻」の版間の差分

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== NRCの敗北 ==
=== 安宅アメリカの石油事業進出 ===
[[1967年]][[11月]]のある日、安宅アメリカ社長[[高木重雄]]は、[[レバノン]]系米国人実業家[[{{仮リンク|ジョン・M・シャヒーン|label=ジョン・M・シャヒーン]]|en|John Shaheen}}が、カナダの[[ニューファンドランド島]]に石油精製工場を建設し、米国東海岸の石油市場に参入するという報道を知った。その頃安宅社内では、高木の私生活を巡る風評から更迭がささやかれていた。このプロジェクトに一枚噛むことで、石油部門の業績を飛躍的に伸ばし、苦境を打開することができるかも知れない。高木は早速人脈を辿ってシャヒーンに接近していった。シャヒーンは[[リチャード・ニクソン]]ら[[共和党_(アメリカ)|共和党]]の有力政治家と親交があり、「政商」「寝業師」と噂される人物であった。
 
高木は[[ハワイ]]出身の日系二世である。戦後、英語力を駆使して[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]との折衝の末、[[財閥解体]]の指定を免れることに成功し、頭角を表した。「二世」「英語屋」のコンプレックスを払拭するためか、(高度成長期のビジネスマンには共通する特徴ではあるが)とかく大きな仕事を狙う傾向にあったようである。また、石油売買のビジネスは、たとえ利鞘が薄かったとしても、大規模な売上を計上し易いため、10大総合商社の最下位(当時は現在とは異なり、総合商社は売上高で競争していた)からの浮上を可能ならしめるのではないかとの考えも安宅社内にあった。
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[[1975年]][[11月14日]]、安宅のメインバンクである住銀の[[伊部恭之助]]、[[協和銀行]](以下協和)の[[色部義明]]両頭取は[[日本銀行]]総裁の[[森永貞一郎]]と会談し、「安宅アメリカによる安宅産業破綻は食い止めなければならない」との認識で一致した。日銀の指導により、[[東京銀行]]、[[三井銀行]]、[[三菱銀行]]を加えた主力5行で、安宅アメリカへの支援体勢を整えることとなり、当面の国際的信用の低下を防いだ。[[12月7日]]、「[[毎日新聞]]」朝刊は安宅のNRCへの融資焦げ付きをスクープ、経営危機が広く世間に知られることとなった。
 
その頃の安宅は資金ショートが続発し、倒産寸前の状態であった。住・協和の両行は緊急融資を断続的に続けつつ、何としても安宅を救済するという意向を固めていた。[[12月25日]]、住銀[[磯田一郎]]副頭取は、[[伊藤忠商事]](以下伊藤忠)副社長の[[溝口義雄]]に最初の合併の打診を行った。続く[[12月29日]]、安宅社長の市川より「今後の措置を銀行に全面委任する」旨の言質を取ると、[[12月31日]]に住銀頭取の伊部は伊藤忠社長の[[戸崎誠喜]]に「損は一切掛けない」と確約した上で、安宅との業務提携の検討を求めた。そして翌[[1976年]][[1月11日]]、戸崎は「両行の要請<ruby><rb>黙</rb><rp>(</rp><rt>もだ</rt><rp>)</rp></ruby>し難くお引き受けすることにします」と正式に回答した。
 
== 破綻の要因 ==