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19世紀初頭、教育問題が提起され、1811年にマルク・フィノは正式の教室を開いた。1864年に土地からあがる収入が抑制され、学校が支払いをするようになった。漁師の親方たちの主導で、学校拡張を可能にする住宅を取得するため、1876年1月に募金活動が組織された。他にも、フォール=フィリップ住民の寄付が続き、教会参事会員ジャック・マセリスの粘り強さのおかげで、教会の最初の石は1860年10月1日に置かれ、2年後には礼拝が行われた。船員たちが1865年に町に寄付をした。1849年と1866年の2度[[コレラ]]流行があり、それぞれ59人と75人が死亡したにもかからわず、人口は75年で6倍になった。
 
グラン=フォール=フィリップの自治は1848年と1862年と1881年の3回主張された。3度目にあたる1881年2月22日に、当時ドゥマルル=フェテル市長率いるグラヴリーヌ市議会の承認を受けて、1883年7月15日付けの[[デクレ]]が公布され、1884年1月1日よりコミューンとなった。1月27日、首長を選ぶため議会が招集された。首長にシャルル=ウジェーヌ・カルネ、助役にジョゼフ・ルプレトルが選出された。[[レジオンドヌール]]勲章叙勲者であるルプレトルは、グラヴリーヌ港の水先案内人であり、救命艇の所有者だった。コミューン庁舎広場は、1894年から1900年までの首長にちなんで名づけられた<ref>{{Lien web |langue= |auteur=Philippe Boutelier |titre=Pierre Joseph Leprêtre |url=https://www.sauveteurdudunkerquois.fr/LEP-1831H/ |site=https://www.sauveteurdudunkerquois.fr/ |date= |consulté le=}}</ref>
 
こうした初期に選出された役人のため、全てがなされるべきだった。地方自治体の財源は、村への物品の搬入に対して徴収される税金だが、最も深刻な問題は、依然としてグラン=フォール=フィリップが不衛生な状態であることだった。コミューンはコレラの流行から逃れられなかった。1892年の流行では35人が死亡した。下水処理の開始まで2、3年待たねばならなかった。