「ウォーレン・ベイティ」の版間の差分

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名門の芸能一家で育った。父は[[音楽家]]、母も舞台[[俳優|女優]]であり、姉に女優の[[シャーリー・マクレーン]]がいる。幼少期より演劇に親しみ、演劇の他、歌や踊り、楽器などを教えられた。大学時代(のちに中退)に単身[[ニューヨーク]]に渡り[[ステラ・アドラー]]に師事。その後、舞台俳優としてキャリアを積む。1950年代にはテレビにも出演をはじめた。
 
1959年、[[ブロードウェイ]]からテレビ、映画に本格的に進出。1961年の『[[草原の輝き (映画)|草原の輝き]]』で、名家に生まれ育ちながらも奔放に生きる主人公を闊達と演じ華々しいデビューを飾った。やがて彼は、1967年の『[[俺たちに明日はない]]』(''Bonnie and Clyde'')でスターの座を獲得した<ref>{{cite web|url=http://www.bbc.com/culture/story/20170814-how-bonnie-and-clydes-final-scene-changed-hollywood|title=How Bonnie and Clyde's final scene changed Hollywood|accessdate=03 April 2020}}</ref>。1960年代後半、すでにスターの座にあったベイティだが、キャリアの浮き沈みが激しかったことも事実だった。しかし、実在した犯罪者ボニーとクライドの最期を描いた『[[俺たちに明日はない]]』の脚本に心を動かされたベイティは自ら製作を志願。[[アーサー・ペン]]を監督に指名して、自らは役をじた。折りしも、アメリカン・ニューシネマ・ブームが起こった時代において、この作品は世界から賞賛を浴びる事になり、[[アカデミー賞]]にも多数の部門でノミネート。興行的にも大成功を収める。当時の配給会社は、興行成績が上がらないと予想していたため、製作と主演を務めたベイティに、興行収入の40%をギャラとして支払うという破格の契約を交わしていた。そのため、ベイティは一本の作品で一財産を築き上げることに成功した。
 
1970年代も、鬼才[[ロバート・アルトマン]]監督と組み、流れ者から寒村の町の名士になり、やがて没落する主人公ジョン・マケイブを描く西部劇大作『ギャンブラー』や、社会問題をテーマとした作品『パララックス・ビュー』など、異色の主演作品を発表した。一方で、製作者脚本を兼ねた作品では、コミカルなラブロマンスコメディ『シャンプー』や、初監督作品にして、大ヒットしたファンタジードラマ『[[天国から来たチャンピオン]]』を成功させるなど、演技のみに留まらぬ多才な手腕を発揮。この二作品で[[アカデミー賞]]にも、多数のノミネートを受けされた。
 
1981年、[[ロシア革命]]を克明に記録した『世界をゆるがした十日間』の著者[[ジョン・リード]]の生涯を描いた歴史大作『[[レッズ (映画)|レッズ]]』で、アカデミー監督賞を受賞。実際にジョン・リードを知る在米有識者を取材、この時の回想コメントをドキュメンタリー式に劇中に織り込みながら、[[資本主義]][[国家]]に戦いを挑む[[共産主義]]者の立場を詳細に描写。こうした画期的な手法を見せたほか、この作品では脚本、製作を兼ね、自らもリードになりきった演技を披露している。