「細川慈忠」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
m編集の要約なし
 
32行目:
[[応永]]7年([[1400年]])、[[信濃国]]で[[大塔合戦]]が発生し、[[守護]]・[[小笠原長秀]]が京都に逐電した後、[[室町幕府]]は国人衆の統御のため信濃を幕府料国(直轄地)とし、応永9年([[1402年]])5月、幕府は[[奉行衆|奉行人]]の依田左衛門大夫・[[飯尾為清|飯尾左近将監為清]]を代官に任じ派遣した。両名は翌年([[1403年]])6月に信濃に下向した。同年9月、幕府は代官を細川慈忠に交替させ、慈忠は[[善光寺]][[横山城 (近江国)|横山城]]に入った。
 
しかし[[村上満信]]や[[大井光矩]]、[[井上光頼]]、[[小笠原為経]]らを始め、[[伴野氏]]や須田氏らの国人衆は代官の命に従わず連合して[[守護所]]を攻めようとした。このため慈忠は市河氏貞らと出撃して段の原([[長野市]][[篠ノ井市|篠ノ井]]段の原)で合戦となった。敗走する村上氏らを追撃して[[生仁城]]や[[塩崎城]]でも攻防戦が行われて落城させた。
 
翌年にも代官の所領実態究明に対して高梨左馬助による強い抵抗があった。このため桐原館(長野市[[桐原 (長野市)|桐原]])や若槻城(長野市[[若槻]])を攻略のため出撃している。さらには下芋河、替佐、蓮、東条などを転戦した。応永22年([[1415年]])に[[高井郡]]の須田為雄を鎮圧して以後は幕府の信濃支配が安定したとされている。
 
== 参考文献 ==