「土橋亭里う馬」の版間の差分
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'''土橋亭 里う馬'''(どきょうてい りゅうば)は、[[落語家]]の[[名跡]]。当代は10代目。
[[三遊亭圓生 (初代)|初代三遊亭圓生]]門下の[[司馬龍生#初代|初代司馬龍生]]を祖とする司馬派は、[[江戸]]時代において隆盛を極めたが、[[明治]]時代以降は衰え、本家である龍生の名跡を襲名する者は50年以上も現れておらず、今はこの里う馬が名を残すだけである([[桂才賀]]の名跡も初代は司馬派出身で司馬才賀と名乗っていたが、その後[[桂文治|4代目桂文治]]を襲名した関係で、2代目以降の才賀は桂の亭号を名乗る事になった)。現在は[[落語立川流]]に所属する落語家が里う馬を名乗っている。
== 初代 ==
*'''[[土橋亭里う馬 (初代)|初代土橋亭里う馬]]''' - 当該項目で記述。▼
*2代目土橋亭里う馬 - ([[生没年不詳]]) 通称肴屋巳之吉。最初は[[昔々亭桃太郎|桃太郎]]というが師匠は不明。後に柳蝶、[[天保]]末に[[土橋亭里う馬#初代|初代]]の門下で里ん馬、[[1852年]]?に里う馬を名乗った。[[浅草]]聖天町の出身。『東形人廼口同言』には[[寄席]]金沢亭の席主であったというような記載がなされている、努力家だが人気は今ひとつであり、その外見から「鼻赤の里う馬」と言われていたという。[[慶応]]年中に横浜で没した。▼
*3代目土橋亭里う馬 - (生没年不詳)通称「眼パチの里う馬」。初代[[登龍亭鱗蝶]]の門下で鱗生後に初代里う馬の門下で2代目[[司馬鱗蝶]]から4代目?[[司馬龍生]]を経て3代目里う馬を襲名した。▼
*4代目土橋亭里う馬 - 後の'''[[柳亭燕路 (3代目)|3代目柳亭燕路]]'''。▼
*'''[[土橋亭里う馬 (7代目)|7代目土橋亭里う馬]]''' - 黒の里う馬。当該項目で記述。▼
*'''[[土橋亭里う馬 (8代目)|8代目土橋亭里う馬]]''' - 当該項目で記述。▼
*'''[[土橋亭里う馬 (10代目)|10代目土橋亭里う馬]]''' - 当代。[[落語立川流]]に属する。▼
{{落語家
| 芸名 =
| 画像ファイル =
| 画像サイズ =
| 画像コメント =
| 本名 =
| 別名 = 上総屋浅井善五郎
| 出身地 = {{JPN}}
| 死没地 =
| 生年 =
| 生月 =
| 生日 =
| 没年 =
| 没月 =
| 没日 =
| 師匠 = [[入船
| 弟子 =
| 名跡 = 1.
| 出囃子 =
| 活動期間 =
| 活動内容 =
| 配偶者 =
| 家族 = [[古今亭志ん馬]](息子)
| 所属 = 司馬派
| 公式サイト =
| 主な作品 =
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| 備考 =
}}
最初[[入船亭扇橋#初代|初代船遊亭扇橋]]門下で名は不明。後に初代司馬龍生門下に転じ里ん太、2代目里ん馬から2代目龍生、さらに土橋亭里う馬(初代)を名乗った。[[烏亭焉馬#2代目以降|2代目立川焉馬]]の贔屓を受け、[[1848年]]秋に2代目焉馬が発行したと推測される[[番付]]には西の[[大関]]で「土橋亭立川龍馬」となっている。材木町に住んでいたが後に八丁堀に転居している。
嘉永4年没。[[享年]]48。
実子は後に[[古今亭志ん馬]]を名乗っている。
門下には[[司馬龍生#3代目|3代目司馬龍生]]、2代目、3代目里う馬、里ん蝶(後の[[瀧川鯉橋|2代目瀧川鯉橋]])らがいた。
== 2代目 ==
2代目 '''土橋亭 里う馬'''([[生没年不詳]]) は、落語家。通称肴屋巳之吉。
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== 3代目 ==
3代目 '''土橋亭 里う馬'''(生没年不詳) は、落語家。本名未詳。
▲
== 4代目 ==
後の[[柳亭燕路#3代目|3代目柳亭燕路]]。本名は中村政吉。
== 5代目 ==
5代目 '''土橋亭 里う馬'''([[1857年]](逆算) - [[1893年]][[11月1日]])は、落語家。本名は金子金吉
== 6代目以降 ==
{{人名の曖昧さ回避}}
{{DEFAULTSORT:ときようてい りゆうは}}
[[Category:落語の名跡]]
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