「苗木藩」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
Yxp on riverside (会話 | 投稿記録) m編集の要約なし タグ: 差し戻し済み |
||
1行目:
'''苗木藩'''(なえぎはん)は、現在の[[岐阜
== 概要 ==
8行目:
第3代藩主・[[遠山友貞]]は新田開発を行なって4286石の新田を開発したが、第5代藩主・[[遠山友由]]の大坂加番、第6代藩主・[[遠山友将]]の駿府加番による出費や第7代藩主・[[遠山友央]]の相続に伴う500石の幕府返上などがあって、根本的な財政の改善には至らなかった。最後の藩主・第12代の[[遠山友禄]]は[[文久]]元年([[1861年]])と[[元治]]元年([[1865年]])の2度にわたって[[若年寄]]となり、[[慶応]]元年(1865年)に大坂警備や[[長州征討|第二次長州征伐]]に参加したことなどの出費が重なって財政は火の車となり、従来の倹約令に加えて5種類の[[藩札]]発行による改革を図ったが、遂に財政は破綻した。
[[明治維新]]後、14万3千両、藩札1万5900両あった藩の借金は、苗木城破却に伴う建材や武具などの売却、藩士卒全員を帰農、家禄奉還させ家禄支給を削減し、さらには帰農法に基づいて旧士族に政府から支給される扶持米を[[大参事]]以下40名が3年間返上させること、[[知藩事]]遠山友禄の家禄の全額を窮民救済と藩の経費とすることにより、[[明治]]4年([[1871年]])8月には5万2600両、藩札5千両にまでに縮小した。しかし旧苗木藩士の生活は年々逼迫し、自殺者まで出る事態となった。さらに明治4年の[[廃藩置県]]により、苗木藩は苗木県を経て岐阜
*[[享保]]17年([[1732年]])下野村の内の500石を幕府に返上したため下野村の一部が公儀御料となる。
== 廃仏毀釈 ==
[[File:P1050245-1.jpg|thumb|270px|岐阜
維新直後、[[平田篤胤|平田]]派[[国学]]の影響を受けた藩政改革が図られ、[[青山景通]]、[[青山直通]]の親子らが先頭に立って、領内で徹底した[[廃仏毀釈]]が実行された([[東白川村]]の蟠龍寺などの例がある)。[[明治]]3年([[1870年]])9月27日、苗木藩庁は、支配地一同が神葬改宗したので、管内の15か寺の廃寺と、その寺僧たちに還俗を申し付けたことを、弁官(中央役人)に届けた。
*[[恵那郡]]
81行目:
{{s-ttl|title=行政区の変遷
|years=[[1600年]] - [[1871年]]|years2=苗木藩→苗木県}}
{{s-aft|after=[[岐阜
{{end}}
{{江戸時代の藩}}
89行目:
[[Category:美濃国の藩|なえき]]
[[Category:遠山久兵衛家|藩なえき]]
[[Category:岐阜
[[Category:中津川市の歴史]]
[[Category:恵那市の歴史]]
|