「呂範」の版間の差分

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関羽を破って間も無く、孫権は[[鄂城区|武昌]]に遷都し、呂範を建威将軍・宛陵侯・丹陽太守に任命し、建業に役所を置かせ、扶州から海までの地域の守備を任せた。奉邑も以前のものは召し上げ、代わりに溧陽・懐安・寧国を与えた。
 
[[222年]]に[[濡須口の戦い|魏が三路から侵攻してきた]]際には、曹丕は宛に進駐し、自ら親征軍を指揮して曹休・曹真・曹仁らに加勢した。孫権は呂範らに五軍(2~3万人)の指揮を任せ、水軍にて曹休らを防がせ、[[徐盛]]・[[全琮]]・[[孫韶]]らを率いて洞口で[[魏 (三国)|魏]]の[[曹休]]・[[張遼]]・[[臧覇]]らの九州の26軍(10万人以上)と対峙した。[[前将軍]]に昇進し、仮節を与えられ、さらに[[南昌]]侯に改封された。しかし、船団が暴風雨に襲われ、船は相次いで転覆し、船は曹休らの軍営に流された。曹休は張遼・臧覇・賈逵・王凌らと共に呂範の船団を破り、数千人が戦死・溺死した。魏軍と戦っている際、孫朗は呂範の命に背いて火を用い、軍用資材を焼失する失策を犯す。呂範は水軍を指揮して孫朗と敗軍を江南に送り返し、自分は残って戦線を維持することに成功した。曹丕は魏軍に命じて急いで渡江させ、その際に賀斉の船団が洞口に到着すると、諸将達の軍団を賀斉軍が補填した。賀斉の軍団で魏軍に対して撃ち返し、呂範が諸将達を指揮して共に魏軍を破り、勝利に乗じて曹休と張遼などを打ち破ると、魏軍を敗退させた(『建康実録』)。洞口から江東に凱旋した呂範は、この功績により[[揚州 (古代)|揚州]]牧も拝領した。
 
[[228年]]に[[大司馬]]に昇進するも、印綬の授与を待たずして死去した。孫権は哭礼し、印綬を遺族の元に追贈した。さらに、都が建業に戻った後に呂範の墓を訪れ、字で呼びかけると涙を流しつつ追悼したという。長男は早くに亡くなっており、次男の呂拠が跡を継いだ。