「エフェソス公会議」の版間の差分

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</ref>で教理確定していたためである。また、「言([[ロゴス]])」や「御子」のような神性を表す名詞の主語と人性を表す述語からなる命題が聖書や典礼文にも存在し、このことに関しても言及した。これを[[テオトコス論争]]という。
 
会議は[[東ローマ皇帝]]の[[テオドシウス2世]]の呼びかけで行われたが、会期は終始混乱した。というのもネストリオスは身の危険を感じて支持者の到着まで会議への参加を拒否していたからである。その隙をついて支持者と共に真っ先に到着したキュリロスの一派が主導してネストリオスの排斥を決定した。その後、ネストリオスを支持する[[アンティオキア総主教庁|アンティオキア総主教]]ヨアンネスとその支持者たちがキュリロス一派を弾劾。さらに[[ローマ教皇]]・[[ケレスティヌス1世 (ローマ教皇)|ケレスティヌス1世]]の使節も到着してヨアンネスの一派を破門するなど神学的、政治的なさまざまな干渉によって会議は混乱した<ref>{{Cite book|和書|author=D・A・v・ハルナック|year=1997|title=教義史綱要|publisher=久島千枝|pages=P.170}}</ref>。最終的に同会議は[[ニカイア信条]]を再確認し、マリアの呼び名はテオトコスがふさわしいとし、暫定処置としてネストリオスを排斥した。
 
公会議によって逆に深まったこの対立を解消するため、[[433年]]には対立したアレクサンドリア学派とアンティオキア学派を代表して(名誉回復された)アンティオキアのヨアンネスがネストリオスの破門を受け入れて合同信条を発表し、キュリロスの一派と和解した。