「利用者:Magyon/作業場4」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
42行目:
==歴史==
[[File:Grand-Fort-Philippe - panoramio - Jean Marc Gfp.jpg|left|thumb|200px|アー川から眺めた街並み]]
コミューンとして歴史が浅いにもかかわらず、将来小さな町となる場所は土地が海に向かって土地が生まれていくにつれてすぐに人が定住した。
 
スペイン人がグラヴリーヌから北海に向かって運河を掘ったのは1635年から1638年にかけてだった。そして、『スペイン人の水たまり』として知られる場所で、西側に彼らは角型の要塞化された構造物を建設し、東側に小さな砦を建設して閘門を守った。この構造物全体がフォール=サン=フィリップ(Fort Saint-Philippe)といった。1638年の冬、フランス軍は海側から閘門を破壊し、スペイン軍は水路の防衛を放棄した。西側を満潮や砂丘の前進から守る天然の堤防が、数か所の農業用小屋の出現を可能にした。1659年11月7日、仏西間で[[ピレネー条約]]が調印されると、フォール=フィリップはフランス領となった。
66行目:
こうしたあまりにも多い海難事故の後、フォール=フィリップの漁業従事者たちは生き残るためのボートの不足にも大きな打撃を受けていた。鉱山で働くため海から離れる者もいた。この多くの難破船は、住民の連帯の動きを生み出した。ノール県は5000フランをコミューンに割り当て、寛大さを示した<ref>{{Lien web |langue= |auteur=Philippe Boutelier |titre=Janvier noir à Grand-Fort-Philippe |url=https://www.sauveteurdudunkerquois.fr/Billet11/ |site=https://www.sauveteurdudunkerquois.fr |date= |consulté le=}}</ref>。
 
[[第一次世界大戦]]中、グラン=フォール=フィリップは、[[ニーウポールト]]に始まりフランドルの山地に向かって[[イーゼル川]]の流れをたどる、前線の後方に位置していた。1916年と1917年には、グラヴリーヌの宿営司令部の権限下に置かれた。
 
[[第二次世界大戦]]中、ル・コション・ノワールという場所で一日抵抗の日を過ごしたが、町はドイツ軍に占領された。グラン=フォール=フィリップは1944年9月7日、カナダ軍によって解放された。