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'''ソルカン橋'''({{lang-sl|Solkanski most}}, {{lang-it|Ponte di Salcano}})は、西[[スロベニア]][[ノヴァ・ゴリツァ]]市郊外の[[ソチャ川]]に架かる全長219.7メートル<ref>両端の高架橋を含む</ref>の[[アーチ橋]]である。
 
モダンデザインの[[ウィーン分離派]]時代の1900から1905年に建設され1906年に径間 85メートルの鉄道橋としては当時最長の石橋が完成した<ref name="Humar">{{cite conference |url=http://books.google.com/books?id=E7ywmb24EQMC&lpg=PA121&dq=%22world%20famous%20arch%20bridges%20in%20slovenia%22&pg=PA121#v=onepage&q=%22world%20famous%20arch%20bridges%20in%20slovenia%22&f=false |title=World Famous Arch Bridges in Slovenia |language=English, French |author=Gorazd Humar |date=September 2001 |publisher=Presses des Ponts |booktitle=Arch'01: troisième Conférence internationale sur les ponts en arc Paris: |editor=Charles Abdunur |pages=121-124 |location=Paris |ISBN=2-85978-347-4}}</ref>。その後、[[鉄筋コンクリート]]を用いた建設技術が主流<ref>1910年にすでに100メートルに達する</ref>となったため、鉄道橋としてのこの記録は現在でも更新されていない<ref>source Via Transalpina, published by Museum of Slovene Railway</ref>。
 
== 概要 ==
橋は、建築家ルードルフ・イェスナーとエンジニアのレオポルド・オーレイが、最初に 80メートルの石のアーチ橋として設計し、1904~19051904年から1905年に[[ウィーン]]の建設会社<ref>Brüder Redlich und Berger</ref>によって施工された。1904年の春、建築会社は軽土の地盤のため設計の見直しを行い、アーチの径間を 85メートルに増やし<ref>Nebojša Tomašević (1982), [http://books.google.com/books?id=zCIuAAAAMAAJ&q=solkan+bridge&dq=solkan+bridge&hl=cs&ei=6PmGTZiEFcHdgQf7-cDDCA&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=7&ved=0CD8Q6AEwBjgK ''Treasures of Yugoslavia: an encyclopedic touring guide''], Yugoslaviapublic, p. 87, [[OCLC]] 10184316</ref>、4,533個のブロックで組み上げられた。
 
1906年7月19日に、イェセニツェから[[ゴリツィア]]への鉄道として、オーストリア皇位継承者[[フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステ|フランツ・フェルディナント大公]]行啓の下、もと開業した。
 
第一次世界大戦の1916年8月、オーストリアの兵士たちは、敵軍に使用されることを防ぐためソルカン地区から撤退する際に 930kgの爆薬を使い、橋を破壊した。戦後、イタリア人は、かつて立っていた同じ場所に、1918年に一時的な鉄骨構造の橋を架け<ref>[http://www.europeana.eu/portal/en/record/2058602/object_Zavad_Jara_5285062.html Solkan : solkanski most](europeana collections)</ref>、1925年4月から新しい橋の建設を始め、そして1927年に完成させた。この橋は、5つ穴の上部サブアーチが4つに変わったことを除き、最初のものと非常に類似していた。
 
第二次世界大戦の間も、橋は爆弾による攻撃を受けたが、1944年8月10日の攻撃では爆弾は橋には当たらず、1945年3月15日の爆弾は不発に終わり、最小の損害に留められた。