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'''東條 英教'''(とうじょう ひでのり、[[安政]]2年[[11月8日 (旧暦)|11月8日]]([[1855年]][[12月16日]]) - [[大正]]2年([[1913年]])[[12月16日]])は、[[日本]]の[[陸軍軍人]]。[[陸軍大学校|陸学校(陸大)]][[陸軍大学校卒業生一覧#1期 (明治18年卒)|1期]]首席。最終階級は[[陸軍中将]]。
 
第40代[[内閣総理大臣]]・[[東條英機]]は息子。
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1855年12月16日(安政2年11月8日)に陸奥の[[盛岡藩]]士・東條英俊の嫡男として誕生。
 
1873年(明治6年)4月、[[陸軍教導団]]歩兵科<ref name=":1" />。1877年(明治10年)、[[西南戦争]]に出征し、同年4月に陸軍歩兵少尉試補<ref name=":1">{{Harvnb|秦|2005|p=108|pp=|loc=第1部 主要陸海軍人の履歴-陸軍-東条英教}}</ref>。1878年(明治11年)9月、陸軍歩兵少尉に任官<ref name=":1" />。1885年(明治18年)12月、[[陸軍大学校]](陸大)を首席で卒業し(1期、卒業生は10人)、[[恩賜の軍刀|恩賜の望遠鏡]]を拝受<ref name=":0">{{Harvnb|秦|2005|p=|pp=545-611|loc=第3部 陸海軍主要学校卒業生一覧-I 陸軍-1.陸軍大学校卒業生}}</ref>{{Efn|陸大優等卒業者への恩賜品は、6期までは望遠鏡、7期以降は軍刀<ref name=":0"/>。}}。
 
1886年(明治19年)5月、陸大教官<ref name=":1" />。1888年(明治21年)3月から1891年(明治24年)12月まで[[ドイツ]]へ留学<ref name=":1" />。[[井口省吾]]・[[山口圭蔵]]と同時のドイツ留学であった。
 
1891年(明治24年)[[9月16日]]、 任 陸軍歩兵少佐、補 陸軍大学校兵学教官<ref>『官報』第2535号「叙任及辞令」1891年12月10日。</ref>。1894年(明治27年)から1897年(明治30年)3月まで、現役の陸軍歩兵少佐のまま、日本体育会体操練習所(現・[[日本体育大学]])長を務めた<ref>{{Cite web|url=https://nittaidai.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=1341&item_no=1&page_id=13&block_id=21|title=学校法人日本体育会百年史第三部 資料編 年表|accessdate=2021-1-10|publisher=[[日本体育大学]]}}</ref>。佐官時代には、[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]第1局局員、陸大教官、参謀本部第4部長(戦史編纂)などを歴任<ref name=":1" />。
 
1901年(明治34年)5月、陸軍少将に進級すると同時に歩兵第8旅団長<ref name=":1" />。1904年(明治37年)5月、[[日露戦争]]に出征<ref name=":1" />。同年9月6日、内地に後送される<ref name=":1" />。1905年(明治38年)1月、留守近衛歩兵第2旅団長<ref name=":1" />。1906年(明治39年)1月、歩兵第30旅団長<ref name=":1" />。1907年11(明治40年)11月7日<ref name=":2">『官報』第7310号、明治40年11月8日。</ref>、中将に名誉進級後<ref name=":2" />、予備役に編入<ref name=":1" />。
 
心臓病を患い、1911年11月より[[神奈川県]][[小田原町]]の別荘で療養していたが、1913年12月に容体が急変し、同月16日に死去した<ref>[[服部敏良]]『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)194頁</ref>。
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なお中将で予備役となった直接の理由であるが、近年の研究では、[[日露戦争]]の時に犯した作戦ミスが原因の一つとされている<ref>長南政義『新史料による日露戦争陸戦史』704頁。</ref>。陸大1期の同期生で旅団長として出征したのは、英教の他に[[秋山好古]]と[[山口圭蔵]]がいたが、山口は免職となり英教は左遷となった。1904年6月に蓋平攻撃と連動して起きた分嶺水の戦闘で消極策を取り独断専行気味に兵を引いたという際、師団司令部と対立したといわれている。ついで7月の柝木城の戦闘において歩兵第三旅団長の英教は攻撃の要であったにも関わらず、師団長[[川村景明]]に夜襲を命じられたとき、状況を判断して夜襲を行わなかったが、その原因は偵察不足であった。そのためにロシア軍が無傷で撤収し、別の師団が敵軍を包囲する事態となり川村の面子が潰された{{#tag:ref|異説として川村から守備を命じられたとき、範囲が広すぎて守れないと回答して、怒りを買ったなどあり。|group=注釈}}からであるという」<ref>長南政義『新史料による日露戦争陸戦史』702~704頁。</ref>。この失敗により英教は兵学書に通じてはいたが実戦向きではなく作戦失敗を招き「実兵指揮能力不足」という評価が下され、歩兵第8旅団長を解任されて留守近衛歩兵第2旅団長に左遷された(名目上は病気)。
 
そのため英教は陸軍でのキャリアが、「出世が遅れ」{{#tag:ref|実際には英教は[[秋山好古]][[井口省吾]]両人よりも早く中将に昇進しており、陸大1期の同期の中では出世自体はもっとも早かった。|group=注釈}}、「大将になれなかったのは長州閥に睨まれたことが原因」と恨んでいた{{#tag:ref|もっとも陸軍大将を複数輩出した陸大31期までの首席のうち、大将にまで昇進した者は15名であり、陸大首席卒業者が大将になれないことは珍しいことではないうえ、同期の2人(秋山と井口)が佐幕派出身であるため、出身地によって大将への昇進に差別があったという事実は認められない。|group=注釈}}。一方で、[[秦郁彦]]は、英教が日露戦争で戦意不足として旅団長を解任されたことを踏まえ、「ですから、よく名誉中将までなれたものです」と評している<ref>{{Harvnb|半藤|2013|p=|pp=|loc=位置No. 569-1024, 第一章 太平洋戦争への道-東条英機 国政、軍政、統帥の頂点に立つ}}</ref>。
 
予備役編入後は、専ら戦術の研究に打ちこみ著述業に従事した。英教は自身の挫折した夢を息子の英機に託した。英機を一流の軍人として育て常日頃から軍人の心構えを説いて聞かせた。大正元年(1912年)12月、英機は見事父の期待に応え、3回目の挑戦で陸軍大学校に合格した。