「ユッルス・アントニウス」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
ユッルス・アントニウスの項目に「子孫」を追加
24行目:
 
=== 皇帝の血族として ===
アウグストゥスは、ユッルスの兄マルクス・アンティッルスや義兄(※実兄という説もある)のカエサリオンらを処刑する一方、アンティッルス以外のアントニウスの遺児、すなわちユッルスや大アントニア・小アントニア姉妹、そしてクレオパトラの間に生まれた3人の子らには寛大な対応を見せた。彼らはオクタウィアの元で[[ローマ市民]]として育てられ、ユッルスはこの継母の引き立てにより、宿敵の子であるにもかかわらずアウグストゥスからの寵遇を受けることとなった。
 
ユッルスはオクタウィアの求めにより、オクタウィアがマルケッルスとの間にもうけた娘(即ち皇帝の姪)[[大マルケッラ]]と結婚する。マルケッラは元々アウグストゥスの盟友[[マルクス・ウィプサニウス・アグリッパ|アグリッパ]]の妻だったが、アウグストゥスが自身の娘ユリアの再婚相手にアグリッパを指名したため、[[紀元前21年]]に離婚させられていた。2人の間には[[ルキウス・アントニウス (マルクス・アントニウスの孫)|ルキウス]]、ガイウス、[[ユッラ・アントニア]]の3人の子が生まれた。この内、ガイウスは恐らく若くして亡くなったと思われる
 
ユッルスは[[紀元前13年]]に[[プラエトル]]、[[紀元前10年]]には[[コンスル]]、さらに[[紀元前7年]]にはアジア属州総督に就任するなど、アウグストゥスからの尊重を受けていた<ref>[[ウェッレイウス・パテルクルス]] 2.100</ref><ref>Syme, Ronald, ''Augustan History'', p398.</ref>。またユッルスもアウグストゥスのために、[[ガリア]]での戦勝を称える詩を書こうとしていたと[[ホラティウス]]が言及している<ref>[[ホラティウス]], Odes 4.2 (''Pindarum quisquis studet aemulari, Iulle'')</ref>。ユッルスは詩人でもあり、12編の詩を書いたことが[[紀元前13年]]以前に「Diomedia」に記録されており、これは現在まで残っている<ref>Kenney, E.J, Clausen, Clausen, W.J. ''The Cambridge History of Classical Literature''(1983) p187. ISBN 0521273730</ref>。
47行目:
[[アウグストゥス]]から見れば義理の甥に当たり、また4代皇帝[[クラウディウス]]の母方の伯父である。他にも大アントニア、小アントニアを通じ多数の[[ユリウス・クラウディウス朝]]の皇族たちと親類関係にある。
 
== 子孫 ==
[[ローマ内戦 (68年-70年)|68年からの内戦]]で[[ウェスパシアヌス]]の最大の支持者となり、[[イタリア]]に進軍、[[69年]]の[[10月]]に[[ベドリアクムの戦い]]で[[アウルス・ウィテッリウス]]の軍を打ち破ったマルクス・アントニウス・プリムス(20年~35年の間 - 81年以降)はユッルスの長男ルキウスの息子もしくは孫の可能性がある(Wellesley, Kenneth (2002). ''Year of the Four Emperors''. Roman Imperial Biographies )。この場合、プリムスはユッルスの孫もしくは曾孫、ユッルスの父マルクス・アントニウスの曾孫もしくは玄孫となる。
 
== 家系図 ==
{{ユリウス・クラウディウス朝系図}}