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 まあ、この他にも修行の上においては、いろんな難しい問題があるのですけれども、たとえば、こんなことがあります。臨済宗の修行は禅問答をするので、禅問答の内容を思い切ってアレンジしてお話ししますが、たとえば、「船が沈没して、自分はボートに乗っています。自分のボートには、あと一人だけ乗せられます。目の前の冷たい海の中には溺れかかっている人が大勢いて、必死で手を伸ばしてくるのです。だけれども、助けられるのは、たった一人だけ。はっと見たら、海の中には見知らぬ人ばかりではなくて、自分のお母さんもいる。そこであなたは、誰に手を差し伸べますか? その時に、有縁の者つまり自分のお母さんに手を差し伸べるのが当たり前のことのように思えますけれども、実は簡単な問題ではありません。有縁と言いますが、たとえばそこにいるのが母親以外に、見知らぬ人ばかりではなく、自分にとって大事な人であったら、どうしますか? 御世話になった恩人だとか、これから御世話にならなければならない人だとかと自分のお母さんを較べて、どう判断しますか? 誰か一人を選ぶ時に、あなたはどこで線を引きますか? 
お手元のプリントの二百八ページの後ろから三行目の少し高いところに、「至道無難なり、唯だ揀択を嫌う。但だ憎愛莫くんば、洞然として明白なり」と書いてありますね。「至道」、つまり悟りの世界というか、仏教の理想とする世界というのは、何も難しいところは無い。ただ選り好み、あれが良い、これが良い、ああだこうだ、という選り好みがあってはいけないのだ、とありますね。人間が苦しんで迷うのは、自分の欲望と執着があるからでしょう。だから、欲望と執着を断ち切ることが、一番大事なのだ、というのですね。何も難しいことをしようというのではない、ただ欲望と執着を断ち切れば良いのだ、と書いてあるわけです。それで次に、先ほどの、「憎愛」、つまり執着ですよね。この「憎愛」が無ければ、「洞然」、からっとして、正しい仏のあり方、涅槃の境地だと書いてありますが、どうですか、ほんとうにそんな風にさらっと行きますか? 今の例でしたら、救命ボートに乗っていて一人しか助けられない時に、お父さんを選びますか? お母さんを選びますか? 両親もそうだけれども、では、たとえばそこに、マザーテレサがいたり、ビン・ラディンがいたり、ヒットラーがいたり、スターリンがいたりしたら、どうしますか? 「揀択を嫌う」のであったら、パッと手を伸ばした時にスターリンがぐっと握った時に、あなたは助けますか、それとも振りほどきますか? こういう問題が起きてきます。修行の現場でも、こういうことろを蔑ろにできないのです。臨済宗の禅問答の場合は、一対一で老師が点検をしますから、こういうところに対して、あなたはどうしますか、って詰め寄られたら、大変なのです。こうした場合であっても、やはり「仏見、法見」があってはいけない、となります。だけれど、そんな簡単ではないでしょう。だって、普通の感覚では、善い人を助けるべきであって、悪い人を助けるのは良くない、と思うではないですか。どうしますか、皆さん? そこで、やはり迷うのです。
頭を剃って、一筋の道を求めて道場に行くということは、実は、そういう問題とずうっと付き合い続けなければいけないということなのです。そしてこの問題には、答えなどありません。でしょう、あるわけないのですよ、そんなものは。いや、この人は悪いことばかりして鼻つまみかも知れないけれど、うちへ帰ったら家族がいて、思いやりがある人かも知れない。その人が「こういう人である」というのは、どこを取ってそう見ますか? 人間なんて、単純ではないですよね。世間的な良し悪しで選ぶのはもっての外、と言うかもしれないけれど、でも、ざっと見てそこに十人いたとして、一人しか助けられないのですよ、どうしますか? 宮沢賢治みたいな人だったら、自分が海に飛び込んで二人助けるかもしれませんね。宮沢賢治みたいな人はね、自己犠牲の人だから。宗教というのは、ぎりぎりのところでやりますから、そういった問題が浮かび上がって来ます。そういったことについて、自分である程度覚悟ができたところまで行かないと、坊さんとして修行しました、なんて、怖くて言えないですよね。だから、行というのは、大変なのです。この『信心銘』では、今言った最初の二行、「至道無難、唯だ揀択を嫌う、但だ憎愛莫くんば、洞然として明白なり」というこの二行だけで、どうしますか皆さん、これ答えなんか無いでしょう。大変ですよ。この後の文章が全部、これの解説なのです。「さて、では今の宿題に対して、どんな風に答えますか」なんて言われたら、簡単には答えられません。でも、いろんなシチュエーションで、こんな風に考え、あんな風に考え、ということを試されるように、詩が並んでいるのです。だからこれを読む人間は、「自分はこう思う」ということを試しながら読んでいくのです。それで、自分を試しながら読むのだけれども、やはり難しいから、瑩山禅師が自身の境涯で注釈を書いてくれていますよね。そうするとわたしたちは、ああ、瑩山禅師はこういう風に読んでおられるのか、でも本当にそれで良いのだろうか、こんな問題についてはどうなのだろうか、と瑩山禅師と問答しながら読んでいくのです。だからこの『信心銘拈提』の「拈提」というのは、洞門の方ではどういう理解か分かりませんけれども、臨済の方では、「拈提」というのは、問題をこっちから見たり、あっちから見たり、いろんな角度から見て検討して、あらゆる質問、あらゆる答えを想定しながら吟味を重ねて、「これしかない」というものを自分で出してくるのを「拈提」と言います。
臨済宗では、公案を老師からもらいますね。そして実際に自分で「拈提」をやります。もちろん、公案としてやる時には、文章はこの瑩山禅師のではないですよ。『信心銘』でもなくて、禅の語録『碧巌録』の第二則、趙州従諗というお坊さんの登場する物語で、この「至道無難、唯嫌揀択」というのをやるのですけれども、その時に、これどういう意味かな、こういう意味かな、それともこういう意味かな、と老師のところに自分の見解を持っていくと、「違う!」と言われて、次のを持っていっても、また「違う!」と叱られて、説明は一切貰えません。ただ「違う!」と言われるから、坐禅中も、托鉢中も、薪を割っていても畑を耕していても、自分で、こういう考えをするとこっちは良いけどこっちはダメ、こういう考えをするとこっちは良いけどこっちはダメ、というのを吟味しながら、延々とずうっと練って練って、老師のところに持っていくのです。じゃあお前、これ、修行僧にそんなに練らせるのだから、正しい答えがあるだろう、って言われると、じつはないのです。
これはあらかじめ申しますけれども、今日はこういうテーマでお越しになるような皆さんですから、坐禅をしておられたり、在家の戒を守っておられたり、城満寺の田村老師、あるいは木村老師、その他何らかのご縁のある、仏縁の深い方ばかりだから、ちょっと踏み込んで申しますけれども、よく重大な決断に迷ってお坊さんの所へ相談にお越しになる時には、正しい答えは何でしょうか、と訊きたい方がほとんどだと思います。正しい道筋はこうですよ、と答えが聞きたいのですね。ところが、正しい道筋があるのだとすると、それは決断ではないのですよね。だって、正しい答えがちゃんとあるのだから、それがわかりさえすれば決める必用なんかありません。決断というのは何か、と言うと、どっちを取って良いか分からないし、どっちを取っても必ず何かを犠牲にしなければならないものなのです。だから、答えに苦しむわけですよ。苦しいからみんなは、どうしたら良いですかって訊きに来るわけです。訊きに来る時には、正しい決定だというお墨付きが欲しいのですね。でも、お墨付きが出るようなことだったら、そんなものは決断ではないですよ。でも皆さん考えてみてください、人生には難しいことがいろいろあるではないですか。こっちつかず、あっちつかず、そうやって考え抜いた先に正しい答えがあるのならば、苦労はしません。だから、正しい答えを教えてください、と正解があると思っているのだったら、それは決断ではないです。ただ手続きを執行しているだけのことです。そんなことで良いのだったら、AIの方がはるかに上手にやりますね。IBMのワトソンを搭載したロボットのペッパー君が、しっかりやってくれますよ。ペッパー君は、決める時には論理にしたがって精密に計算し、確率論まで駆使して、迷うことなく無慈悲に決めます。一方、私たちは人間ですから、何を選ぼうと、何をしようと、苦しみがあり、迷いが生まれます。しかし、同時にそこには自分自身の生きざまが懸かっているのです。苦しい時に、自分はこういう決断で生きていく、というのが修行です。だから、苦しくともやらなきゃならないのです。道場の修行も、それを練るためにやるのです。だから、修行の先に見えるものには、正しい答えなどあるはずがないのです。
私自身も、出家して道場に行く時には、いろんな願いを持っていました。自己嫌悪になっていましたから、カラッと晴れ渡ったような心の人間になりたい、と思ったわけです。『信心銘』のこの一行目、ですから、とても良いではないですか。「至道無難、唯だ揀択を嫌う。但だ憎愛莫くんば、洞然として明白なり」と、そんな心境になれるかな、坐禅をして苦しい修行をして自分を磨いたら、こんな境涯になれるかなって思って道場へ行ったわけです。だけれど、今になって思うことは何かというと、自分だけカラッと晴れ渡ったような気持ちになったってダメでしょう。日本中にも、世界中にも、困っている人、苦しんでいる人がいっぱいいるのですから。当時まだ私は若かったから、自分勝手ですからね、自分の苦しみさえ解決すればいいと思っていたのですけれども、この年になってきて、いろんな人の気持ちが分かってきて、しかも私は今では一ヶ寺を御護りする立場ですから、大きなお寺を動かすためにはいろんな方のお手伝い、お力添えをいただいているのですね。そうすると、いろいろな人の顔が見えるようになってくるのです。いろんなご縁ができてくるのですね。助けてもらって、ご縁の方がいっぱい出来てくる。そうすると、その人のことを考えながら、いや、洞然として明白どころではないですよ。泣いている人がいたら、自分も泣かなければいけない、泣かずにはいられない。苦しんでいる人がいたら、苦しまなければいけない、苦しまずにはいられない、とね。だから、修行すればするほど、年を取ればとるほど、苦しみは増えますよね。胸が痛むことも増えていくし。ただ、長年そういうものに自分を晒していけば、だんだんそういうものに対して立ち向かうというか、きちっとぶれないで頑張っていこうという覚悟が固まってくるから、こうして何とか一日一日をやっていられるだけであって、実際には、「ああ」と思うことがいくらでもあるわけです。でも私に言わせれば、それが無かったら、坊さんの価値なんて無いでしょう、はっきり言って。何の苦しみも、感じないのだったら。人間だから、苦しむのだし、苦しみ続けるものだからこそ、修行も必要なのです。苦しまなくても良いのだったら、修行なんかしなくて良いですよ。人間というのは、まともに生きようと思ったら、苦しむのではないですか。誠意を持って、相手に対して親切に、優しく、立派に生きようと思ったら、苦しむわけですよ。だから、修行が要るのですよ。結局、やったことが正しいかどうかなど、誰も分からないのです。自分はその時その時、それが一番良いと思ってやるのだけれど、それでもやっぱり不充分なことは分かっているのです。それでも、やる。それで、そういう人生を考えた時に、皆さんこれどうですか、「至道は無難なり」というのは。無難ですか、本当に。大変じゃないですか。「唯だ揀択を嫌う」、とはいっても、揀択しなければならないではないですか。だって、さっきの救命ボートの例で言えば、席は一つしか無いのだから。否でも応でも、ここには一つしか無いのですからね。そんなこと現実の世界にはいくらでもあるじゃないですか。逃げようとしたって、結果は出てしまうのです。ですから、「但だ憎愛莫くんば、洞然として明白」とありますが、正直なところ、そんなことあるかいな、でしょう。でも大事なことは、瑩山禅師は厳しい修行を積み重ねて、道を求める人生をずうっと生きながら、その上で瑩山禅師は「洞然として明白」だと考えられたのです。瑩山禅師は、「洞然として明白」ということが延々と書いてある詩に対して、共感をしながらずうっと書いていくのです、自身の境涯を。
『信心銘拈提』は、前半が、今私が言いましたように、とても懇切丁寧な説明になっています。それは、どちらかと言うと、こういう境地ですよ、という以前に、修行者たちに向かって、あなたたちは、こういう風に考えたらいけませんよ、という、考えたらいけないことの説明がたくさん入っているのです。何度も繰り返しますが、もの凄く丁寧ですよ。修行の道を行く者が陥りがちなものが、いっぱい書いてあります。たとえば、二百十二ページ、右から三行目。「有縁を追うこと莫れ。空忍に住すること莫れ」。これは『信心銘』の文章ですけれど、「有縁を追う」というのは、このわたしたちが生きている社会でのことですね。有縁だ、というのは、わたしたちにはさまざまなご縁があるでしょう。だから、論理的に、合理的に考えて、普通にものを考える時はすべて「有縁」です。でも、こういう場合には、無明の働きがありますから、どうしても欲望や執着にとらわれてしまいます。「空忍」というのは、そうではなくて、本当にカラッとして縁が全部切れてしまったような境地に見えるのですが、やはり仏法に対する執着を捨てることが出来ないでいるのですね。これは両方とも駄目なだというのですね。実際にそうですよね。だって、わたしたちが全員、自分のお母さんばかりを優先して、他に素晴らしい人がいてもひたすら自分のお母さんが先だ、などとやっていたら社会なんかどうにもなりません。だからといって、自分は世俗の法にはかかわらないから誰でもいい、私は知りません、関係ありません、というのもダメでしょう。両方とも極端な立場で、そんなことでは両方とも駄目になってしまうのです。人間というのは、極端に走ってしまいがちですが、両方ともダメなのです。しかし、瑩山禅師はここで、だから有縁にも空忍にもとらわれず、両方を超えたところに本来の仏法はあるのだ、というのも、やはり空忍を免れることができないから駄目だというのです。これは修行者が陥りがちな罠ですね。厳しいですね。こういうことも、ちゃんとこの『信心銘拈提』には書いてあります。ここを見てくださいね、この説明の長さを。だから、ここはとても大事なところなのです。こういう教育的なところに関しても、長い説明があって、ここの文章に関しては、とても見事というか、論理的にもきちっとしているのです。きちっと詰めてあって、読んでいくととても明快です。だから、やはり凄いです。頭脳がとてもシャープだし、概念装置がきれいにできている方です。しかも教育的な配慮もあって、修行も抜群にできる方です。だから、これだけの内容のものを読むと、わたしは、この著述の著者は瑩山禅師だと言われていて、じっさいそういう風に理解しもて良いというお話でしたけれども、著者は誰か、ということを抜きにしてもまず凄い人だと思います。そして、これはわたしたち臨済宗とはずいぶん家風が違います。こういう感じの懇切な説明は、臨済宗では、まずしませんから。臨済宗は、ゴーンって殴ったりするのです。だから、こんな親切丁寧なことは無いですけれども、でも、この境地に関しては、抜群というか、こういう方は臨済と曹洞どころか、各宗派に限らず、見事な方です。素晴らしく行き届いています。まんべんなくバランスが取れていて、有能であって願心も強くて、本当に素晴らしい人ですね。そういう意味では、これはとても良い著述だと思います。
 しかもですね、皆さん、こういう風に延々と最初の方で教育的な配慮を見たではないですか。ところが途中で、面白いですよ、二百二十ページ。このご縁があったものですから、私、久しぶりに読んだのです。昔読んだ時の感激を思い出しながら読んだのですけれども、二百二十ページの一行目のところ。「咎無ければ、法無し。生ぜざれば心ならず」というのがあるでしょう。これは『信心銘』の文章ですが、次の行、一段下がったところがあるでしょう。これが瑩山禅師の注釈つまり拈提です。「心法両ながら立せず・・・一撃に撃砕す、根、境、識。生死いずれの処にか蹤跡を留めん」というところです。ここの何が良いかと言うと、先に言ったように、二つに極端に分かれてくるものがあるけれど、二つともが両立するなどということは無い。そうすると、どうして良いかわからず、立ち止まって困ってしまう。そういう時にどうするかと言うと、「一撃に撃砕す、根、境、識」。「根、境、識」というのは、仏教の用語です。根というのは、受容器官。見たり聞いたりする、目とか耳とかです。識というのは認識、見たら赤いな、青いな、というもの。境というのは、客観世界から赤や青の光が入ってきたり、音がしてきたりするところ。その三つがくっついて一つの認識が成立するのですけれども、要するに見たり聞いたりの経験を、主観も客観も経験も、全部ふっとばしてしまえ、残らず叩き壊してしまえ、と言っているのです、「撃砕す」と言うのだから。ここのところ皆さん、どうですか、ものすごい境地でしょう。最初の方は教育的配慮が細やかでしたが、途中からここへ来て、ドーンとこういうことを言い始めるのですね。これは修行の上級のコースです。暑いとか寒いとか、そんな程度ではない。細かいことを全部ふっとばして、まっすぐ一道を貫くと言うのです。仏道をまっすぐ貫くためには、見たり聞いたり、迷ったり悩んだり、それ全部ふっとばせ、と言っているのです。強烈ですよ、これは。ここで、本当に吹きとばせるのかい、と言う人がいるかも知れませんが、そこは宿題です。どう吹きとばすかは皆さんの宿題ですけれども、「撃砕せよ」と瑩山禅師は言っているのだから、撃砕しなかったら、弟子としてはついて行くことが出来ないわけですよ。しかし、出来ないのなら、ついて来るな、と瑩山禅師は言う。まあちょっと、こういう言い方をすると臨済っぽいですね。洞門ではここをどう見るのでしょうか。わたしから見ると、ここは師匠から「ついて来るな」、と言われるようなところです。「これができんうちは、我が門に入ることを許さず」とやられる厳しさがあるように感じます。
 それから、先ほどお話に出ていたことと関わるのですけれども、こうした厳しさがよく分かるところを、もう二つ見てみましょう。まず一つめ。私が今お話ししていることをそのまま鵜呑みにしていくと、いや、そもそも答えなんか無いのでしょう、実際には道なんかとても成就できないのではないですか、ということになりそうですが、たとえば二百二十二ページの、五行目。ここは私の大好きなところです。「小見狐疑、轉た急なれば轉た遅し」と一段高いところ、これは『信心銘』の文章ですけれども、「小見狐疑」、損得のような小さなことで満足するような、視野狭くて小賢しい知恵ばかりついているような奴は、修行を急ぐからこそ、悟るのも遅い、というのですね。ここで、何がいけないかと言うと、瑩山禅師は、「小見狐疑、而も易く得んと欲し、早く入らんことを覓む・・・見本と小なる故に、疑も亦浅し」。と言っていられるのですが、要するに、ちょっと聞いただけで理解したり、ちょっと考えただけでマスターしたがり、修行期間も3年かな、5年かな、20年かな、30年かな、などと期間を気にして、どうでも良い表面的なことばかり考えているじゃないか、と切り捨てているのです。そういうのは、着眼点が卑小だから、修行の原動力となる疑いも浅薄だ、というのですね。ここで面白いのは、ここから五行目。「然り、仏道を願う者は、恒時に願うべし。百劫、千劫を限るべからず」、仏道を願う者は、永遠に仏道を行くことを願うべきだ。「百劫」、一劫(カルパ)を五十六億七千万年として、その百倍、千倍と「限るべからず」ですよ。仏道を行く人間は、それだけ長い時間だろうと、退屈して退き屈してはいけない。「三世の諸仏、長劫に修行して、なおいまだ休せず」と。かつてあった仏たちは、未だに修行をしているのだ、と。「虚空たとえ尽くることあるも、仏行は退転なし」。虚空が無くなってしまうことがあったとしても、仏道が無くなることは無い、と言うのです。「三祇百大劫と説くは、仏行の一時二時を説くなり。しかるを、仏道を一生に極めんと欲する小見、甚だ笑うべし、笑うべし、癡なり、癡なり」。この一生で仏道を修めようなどというのは小見だ、と言っているのです。「甚だ笑うべし、笑うべし。癡なり、癡なり」でしょう。強烈ですよ、これは。
だから、何が言いたいかというと、要するに今言ったお話です。具体的に、実際に何か結果が出るか、ということではないということです、仏道というのは。その人の生きる道ですから。だから、よく皆さんが「道」とか言う時には、世間的な考え方が強くなっていますから、やったから結果がどうなりますか、というようなことを考えるでしょう。どうしても入り口と出口を考えてしまうのです。入り口は入門、結果はどうなりますか、出口が保証されないようなことはしないのです、賢いから、みんな。でしょう。努力したけど結果が出なかったなんて、バカバカしくてやっていられないではないですか。それは、世俗の考え方です。それでも、やらなきゃならんと思ったら、やろうと思ったら、やるべきと思ったら、出口は考えずにやらなきゃならないことも人生にはあるのですね、出口のことを考えずにやると、結果が伴わないから、多くの場合は、愚か者と言われるのですよ。だけれども、愚か者と言われようと、何と言われようと、やらねばならないものは、やるのです。世間の尺度でやっていく必要はないのです、結論は分からないのだから。そんなことにとらわれずに、ただ、やっていくのです。だけど皆さん、こういう風に言ったので、むちゃくちゃなことを言っていると思ったら、大間違いですよ。だって、皆さん考えてください。たとえば、私が一番気に入らないことは、よく、ここから先はマニュアルが通じません、ということがあるでしょう。これって、本来は逆ではないですか。普通は、ものを覚える時には、やってみて、うまくいかなかったら調整するでしょう。お父さんお母さんにお菓子をねだってうまくいかなかったら、肩揉んでみたり、いろいろしてみて、失敗をしながらトライアル・アンド・エラーを積み重ねて、試行錯誤しながらやっているでしょう。日常生活の細やかなことは皆さん忘れていますけど、人間なんてみんなそうではないですか。生きていくのなんて、試行錯誤でしょう、微調整しながらやるのです。だから実は、多くのことはマニュアル通りではなくて、マニュアルは利用しても、実際には、トライアル・アンド・エラーで、やったことを調整しながら生きていくわけでしょう。それが、知のあり方なのです。こちらが、本来の、知るということでしょう。だけど、ある部分に関しては、マニュアル通りにやればうまくいくという、単純な部分もあるわけです。それに関しては、賢い人がマニュアルを作ってくれるから、その通りやれば試行錯誤なんかしなくてもこのようにできますよ、と。それがたくさんあるものだから、今こうして科学が発展して、誰がやったってできる。電気はつくし、飛行機も飛ぶし、どんな人間でもこのとおり計算すれば宇宙へだって飛んでいけて、月まで行くわけです。そのようなマニュアルができる分野もあるけれど、一人一人の人生において切実なもの、生きたものは、できないわけだから。
今は、誰もが「結果が分からなければ...」と言いますが、こうしてお話をしている仏道のように、結果なんか分からないことなどいっぱいありますよ。それは、そもそも人間の生きざまというものが、そうではないですか。生きざまが、ね。人生どうなるかって、予想なんかつきません。命は、はかないから。五分後にそこで命を落とすか、分からないですよ。分からないものの結果は、予想できません。だから、人間が生きているということは、保証がないまま生きているのだから、仏道だけが不思議なわけではないですよ。ただし、どこが違うかというと、仏道に関して言うと、やはり普通の自分の人生の中で「まあ、いいかな」くらいの小さな欲望ではダメだ、ということです。それぐらい強い願心を持つ。瑩山禅師のお母さまが、観音堂で観音さまに強い信仰を持っておられたということを見たら、観音さまというのは苦難を忍ぶ叫び声を聞きつけて助けに行くという。私たち臨済宗でも朝課でよく読むのですけれども、『観音経』というお経がありますね。その途中で、「即現仏身、而為説法。応以辟仏身得度者」と延々と読むところがあるのですけれども、あれが観音さまの姿ではないですか。どこへでも、行く。あれこそ、揀択が無いでしょう。相手に応じて、相手の揀択に合わせていくのだけれども、ご自身に揀択は無いでしょう。どんな身分だって、どんな育ちだって、ああして、応じて行くということを言っている。あれはだから、逆に言うと、そういう強い願心を持ってするということですから、その願心を一人の人間がやろうと思ったら、とてもではないけれど背負いきれない。背負いきれないからといって、では出口が無いからやるなという意味か、いやそれでは、人生、生きている価値なんて無いではないですか。だから、どんなに辛かろうと、無駄に見えようと、やるべきと思ったら、やる。その時に、この言葉がやはり生きてくるわけです。どれほど辛かろうと、先がどうなろうと、やるべきと思ったら、やる。不退転の決意で、やる。そういう覚悟が無かったら、仏道なんかできませんから。今の私たちは、だから、お坊さんとして世の中に出るためには、そういう覚悟が本当にあるのかなって、時々試されることがあるわけですよね、実際に。そういう意味では、この衣をつけさせていただいているという時点で、私たち僧侶は、もう得をしているのですよね。普通の服を着て、普通の暮らしをしていたら、「まあ、このくらいでいいかな」と思う。だけど、衣を着て、僧侶として街へ行ったら、やはりそうはできないのですよね。自分が不充分でも、何とかしなければと、それでも叱咤してもらいながら、結局ぐずぐずしながらこうして頑張っていくから、私たちからすると瑩山禅師のこの『信心銘拈提』の高度なというか硬派なところまでは、とてもではないけれど行けないです。だけど本当に大事なことは、やはりこういうところですよね。私はですから、道場でこれを読んだ時に、ものすごく感激したのですよ。「すごいことが書いてあるな」と。「これが本当の、道を求める修行者のものなのだな」という風に、私は感激した覚えがあるのです。
 さてそれで、今お話ししたことはどちらかというと、「済門から見た」というよりは、私の個人的な修行僧としての体験から来ているのですけれども、せっかくですので、私は臨済宗ですから、臨済宗の側から見た見え方というものを、少しお話ししようと思っています。実は、一番良い参考資料は、実は、今日は私も迷って結局皆さんのお手元には用意しなかったのですけれども、この「至道無難、唯だ揀択を嫌う」というくだりは、たとえば『碧巌録』というテキストの中には、趙州従諗という、臨済宗にとっても別格の、禅の最も優れた偉大な師がいるのですけれども、その趙州従諗が出てくる公案が沢山あって、その中に、この「至道無難、唯嫌揀択」を主題にして、四つの問答が出てくるのです。だからそれぐらい、趙州従諗という人は、この言葉を重んじていたということが分かるのです。それで、実際に私たちも修行道場で、禅問答としてこの四つのうちの三つくらいはやるのですけれども、中々難しくて、どうしてよいか分からないような苦労をするものなのです。ですけれども、臨済宗ではこの言葉をどんな風に見ているか、ということを、少しだけ皆さんにお話しします。一番有名なのは、『碧巌録』の第二則。『碧巌録』というのは、百個の公案が集まっているのです。一則目は、達磨さんなのです。なぜ達磨さんかというと、達磨さんが中国に禅を伝えた第一祖だから、達磨さんです。二番目に、これが出てくるのですね。私は、多分これが二番目に置かれているのは、意味があると思っています。重要な公案だからだと思っていますけれども、ここで趙州という和尚さんが何を言ったかというと、「至道無難、唯嫌揀択」。ここは『信心銘』のままですね。そこに続けて、「纔かに語言あらば、これ揀択、これ明白。老僧、明白裏にはあらず」と言っているのです。どういうことかというと、「至道無難」、至道は無難である、唯だ揀択を嫌う、仏道の究極の道というのは難しくはない、ただ選り好みを嫌うことだ。ここまでは一緒です。ただ、その次がね、皆さまのお手元にある『信心銘』だと最初のページ、二百八ページの後ろから一行目、「但だ憎愛莫くんば、洞然として明白なり」と言っているところに対して、趙州和尚は書き換えて、「纔かに語言あらば、これ揀択、これ明白」と言っているのです。『信心銘』では、問題は愛憎ですね。愛憎、執着です。ところが、この趙州禅師はここで、愛憎ではなく「語言」つまり「言葉」を入れているのですよ。「纔かに語言あらば」、ちょっとでも言語化して、言葉でものを考えるならば、と言っているのです。私たちは誰もが、言葉を使ってものを考えますから、ここで思慮にわたる、分別が生じるのです。皆さんもよくお聞きになるかと思いますが、禅宗では思慮分別を嫌いますからね、ちょっとでも言葉の世界に踏み込んだならば、それは揀択だ、選り好みだ、となる。そして、「明白」という言葉は、趙州和尚は否定的な意味に用いているように見えますね。その次の文章で、「私は、明白のところには立っていない」と言っていますから。『信心銘』では、「洞然として明白なり」というのは、普通に読んだら悟りの「至道」のところを「明白」と表現しているのですけれども、趙州和尚は「老僧、明白裏にはあらず」と言って、「私は、明白のところには立っていない」というのです。
さて、ここで何が言いたいのかというと、別にこれは趙州和尚が『信心銘』を批判しているわけではないのです。皆さんにお話ししたいことの一つ、今日のテーマにもある、臨済宗と曹洞宗の違いというところで、多分一番大事なのは、曹洞宗の方でもよく使われるのかも知れませんけれども、私たちの臨済宗の修行で一番大事なのは、「抑下の卓上」と言いまして、良いものは抑えろ、といって批判する。貶(けな)すのです。良いものであればあるほど貶して、ボロカス言ってしまう。ぐっちゃぐちゃに言うのですが、それは、単純に批判と取ってはいけないのです。良いものだから、そうしているのです。何でそういうことをするのかというと、一つは、この仏門の、仏道の世界というのは、先ほど申し上げたように、大変に難しいものでしょう。だから、表明的な理解で、何となくそうかな、と思われては困るではないですか。だから、そうしないために、「ダメだぞ。みんなが良いと思っていても、ダメだぞ」と言う。すると「え、ダメなのですか」となります。そこで、「よく考えなさい。」「本当にダメなのか。」「本当に良いのか。」と、追い立てるのです。ちゃんと熟考させるために、ちょっと突っついて、ピシャッ、ピシャッとやるのです。禅問答というのは、実はそういうことなのですよ。本当に分かっているのか、ということのために叩いているのです。本当にそうか、本当にそうか、本当にそうか、と。そういう吟味の手続きが禅問答で、本来の姿なのです。何もその、誘導して答えを出させるのではなくて、ビシャビシャやるのです、本当にそうか、と責め立てる。そういうやり方です。だから、たとえば、ちょっとこの『信心銘』では分かりにくいので、実際にある公案から出しますと、利休さんの有名な歌があるでしょう。「寒熱の地獄に通う茶柄杓も 心なければ苦しみもなし」という歌があるのですが、この歌を出した時に、利休さんが悟りを認められて印可をもらったという伝説が伝えられているのですよ。ところが、禅問答の現場では、この歌の下の句が不充分だ、と採り上げるのです。この下の句が不充分だから、書き換えなさい、というのです。「えー」と思うでしょう、利休さんの「心なければ苦しみもなし」というが、不充分だから書き換えろ、と。
実は、「この漢詩の中のこの一文字がおかしい、書き換えろ」とか、「これはこの二行がおかしいから書き換えろ」とか、そういう公案が実際にいくつもあって、今でも修行の現場で使っていますけれども、それはどれも、実は、書き換えろとは言うのだけれども、もとのものがダメなわけではないのです。「寒熱の地獄に通う茶柄杓も」と言ったら、要はお茶を点てている時は、水指の冷たい水の中に入ってから釜の中に入って、熱い、冷たい、熱い、冷たいを繰り返すでしょう、だからそれは地獄のようなものだ、と。寒冷地獄に炎熱地獄を往復している、と。だから、人間が辛いのは、そういう風に往復しているようなものだ、と人間に譬えているのですよね。これは自分のこととして詠んでいるのです。柄杓とは、自分のことです。だけれども、「心なければ」、無心の境地になれば、無心になってやるならば、苦しみもないよ、と言っているように聞こえるではないですか。だけれども、皆さんどうですか、先ほどの話で、無心になれますか、本当に。だから、この歌は「無心を言っているのだな」と理解した瞬間に、利休さんの真意なんて、誰も分からないでしょうね。だって、無心になる、そんなことで済むなら、誰も困らないわけですよ。利休さんは実際に、あの戦国の、命懸けのもの凄い時代の中で、地獄めぐりのような人生を送ったわけでしょう。最期は腹を切っていますからね、お茶を残すために。だからそのもの凄い時代を生き抜いていたのですから、あれは実感のこもった言葉ですよ。覚悟ができているわけでないですか。その時が来たならば腹を切る覚悟ができている、その境地を、「心なければ苦しみもなし」と言っているのだから、そこで下の句が不充分だなんて言ったら、「え!だけど、不充分だと言うなら、どういう境地だったら利休さんにふさわしいだろうか」と、一生懸命に考えるわけです。一生懸命、自分でそういう風に利休になりきってこの歌に参じて、自分なりに精一杯、自分自身をを照らしながら、自分の道を「こういうことかな」とやるわけです。そして出てくるべきものが出てきた時に、「ああ、利休さんは、本当はこう思っていたのだな」ということになるのです。そういうように気が付くように、実はなっているのです。だから、そういうところの真意が分からないと、勘違いして、何か揚げ足取りみたいに理解してしまう人もいるのだけれども、それは違うのです。そうではなくて、表面的に取ってしまったら、せっかくのその奥に秘められている、長い間の坐禅や、苦しみを乗り越えていった修行といったことが抜け落ちてしまうから、そういう一番大事なものを抜け落ちさせないために、取りついて、食らいついて、自分で言ってみなさい、自分の境涯を練りなさい、というように与えるものなのです。利休さんはこうだったのかな、ああだったのかな、と考える、それを「拈提」と言うのですね。そうすると、臨済宗の側から拈提というものを見て、『信心銘拈提』というものを考えるならば、臨済のやり方では、一言二言で簡潔に「あかん」と言ったり、「間違っている」と言ったり、「取り替えろ」と言ったり、非常に短い言葉でつけていくことになりますね。たとえば皆さん、今日、家に戻られましたら、『碧巌録』という本を手に取られると良いですけれども、その中に短い寸評がいっぱい入っているのですね。それが、「本当にそうか」「本当に分かっているのか」と問いを投げかけていることになるのです。もちろん、『碧巌録』には、長い説明的なコメントも付いていますよ。圓悟克勤という人の長いコメントも付いているのですけれども、だけど実は、何がしたいかと言えば、要するに「本当にそうなのか」「本当にそうなのか」という問いかけをして、読み手の修行者を責め立てているのです。たとえば、先ほどの『碧巌録』第二則の「趙州衆に示して曰く『至道無難、唯嫌揀択、纔かに語言あれば、これ揀択、これ明白、老僧明白裏には在らず』」というところに、圓悟禅師の短いコメントが付いているわけです。「賊身、已に露わる」と。「泥棒だということがバレたぞ」と。つまり、趙州は泥棒みたいなものでお前のことを騙しているぞ、と。油断するなよ、額面通り取るなよ、と圓悟禅師は言っているのです。それで、「『賊身已に露わる』って、趙州禅師は賊なのですか」と。そういう風に、要点ごとに立ち止まって吟味しなさい、そうしないと肝心の所はまったくわからないぞ、と、そういうことを繰り返しながら自分の見解(けんげ)を練っているのです。
 さてそれで、もうそろそろお時間になりますので、最後にまとめますが、では何が言いたいかというと、そういうことがあって、私たちの課題として、私の属しています臨済宗の立場から、究極的には臨済も曹洞もないのでしょうけれども、この『信心銘拈提』を見た時に、私が思うことは何かというと、この『信心銘拈提』というのは、今私が臨済宗で紹介したような意地の悪いところが無いのですね。きちっと、論理的にきちっと説明してあります。だからこそ逆に、スルスルと読んで理屈が合っていたら、分かった気になってしまうのです。それでは、いけません。ですから、我々臨済宗的に言うと、この瑩山禅師がきちっと説いておられるものを、裏から見、下から見るために、この全体が揺らぐような疑問を出してください。「これはうまく言えていないぞ、瑩山さん、不充分でないのか」という風に掘り下げていく要所が、いくつもあるはずです。実際、いくつもあります、それは。一見論理的に押しているようで、恐ろしいことを言っておられる場所が沢山あります。それを自分で探して、探っていくということです。そこで、生きた一句がでる。それを「転身(てんじん)の一句」などと言いますよね。身を翻す一句です。流れがバッと変わってしまうような「転身の一句」と言うのですけれども、そういう生きた言葉を自分で語録に投げかけて、新しいものの見方、感じ方をわがものにする。そうしたことを目指すというのが、私たち全員の課題ですね。私は臨済の立場からこの『拈提』を読んでいますけれども、まだ中々良い句は付かないですけれどね。ですが、そういうことを通じて参じていくということが、とても大事だと思います。
 そんなことで、だいたい時間になりましたので、取り敢えず私の話はここで開きたいと思います。どうも、お疲れさまでした。
 
司会 柳先生
 
古川老師、ありがとうございました。それでは、お時間の方が少し押してしまいましたので、五分ほど休憩を入れさせていただきます。その間にこちらの方は、総合討議の準備をさせていただきます。ですので次は、三時五分から始めさせていただきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。
 
===インド独立後===