「富樫雅彦」の版間の差分

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1965年に日本初のフリー・ジャズ・グループと言われる富樫雅彦カルテットを結成<ref>他のメンバーは[[山下洋輔]]、[[武田和命]]、[[滝本国郎]]。『[[スイングジャーナル]]』2007年10月号(スイングジャーナル社)p.121参照</ref>。この頃には、[[唐十郎]](俳優、劇作家)や[[足立正生]](映画監督)と共に「新宿の三大天才」と呼ばれていた<ref>副島輝人『現代ジャズの潮流』(丸善、ISBN 4-621-06004-X)p.43参照</ref>。
 
1969年に実験的音響空間集団ESSG<ref>他のメンバーは高柳昌行、佐藤允彦、[[沖至]]、[[高木元輝]]</ref>を結成。この年、富樫は後世に語り継がれることになるアルバムを連続して生み出す。1月には[[鈴木弘 (ミュージシャン)|鈴木弘]]との双頭コンボで「ヴァリエーション」を録音。3月と7月には[[佐藤允彦]]とのトリオで「[[パラジウム (佐藤允彦のアルバム)|パラジウム]]」、「トランスフォーメイション」、「デフォメイション」を録音。4月と6月には[[宮沢昭]]と「[[FOUR UNITS|フォー・ユニッツ]]」、「[[いわな (宮沢昭のアルバム)|いわな]]」を録音。5月と11月には自身のカルテットで「[[ウィ・ナウ・クリエイト]]」、「スピード・アンド・スペイス」を録音。そして12月には映画『[[略称・連続射殺魔]]』(監督:足立正生)のためのサウンドトラックとして、高木元輝と「アイソレーション」を録音した。これは富樫が両手両足でドラムを演奏した最後のアルバムとなる。
 
1970年1月、富樫の浮気が原因で、妻に背中をナイフで刺され脊椎を損傷、下半身不随となるが<ref>[[相倉久人]]『至高の日本ジャズ全史』</ref>、5月には[[スイングジャーナル]]誌の読者人気投票でドラマー部門の第1位に輝く。約3年半後の1973年7月7日には、「インスピレーション&パワー14 フリージャズ祭」に佐藤允彦とのデュオでステージ復帰を果たす。(スタジオレコーディングは71年に復帰)自身が考案したドラムセットにより、両手のみで演奏する打楽器奏者として、不屈の闘志で活動を再開。