「大鳥圭介」の版間の差分

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|国略称 = {{JPN}}
|生年月日 = [[1833年]][[4月14日]]<br />([[天保]]4年[[2月25日 (旧暦)|2月25日]])
|出生地 = {{JPN}} [[赤穂郡播磨国]][[念村]]
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1833|4|14|1911|6|15}}
|死没地 = {{JPN}} [[神奈川県]][[国府津町|国府津村]]
|出身校 = [[閑谷学校]]<br/>[[適塾]]<br/>[[江川塾]]<br/>[[ジョン万次郎]]
|所属政党 =
 
== 概要 ==
[[1833年]](天保4年)[[赤穂郡摂津国|摂津]][[尼崎藩]]の飛地領である播州[[細念村]]小字石戸(現・[[兵庫県]][[赤穂郡]][[上郡町]]岩木丙字石戸)に村医者の息子として生まれる。[[岡山藩]][[閑谷学校]]で[[漢学]]、赤穂・[[中島意庵]]の下で西洋医学、[[適塾]]で医学を学んだ後[[大木忠益]](坪井塾)で塾頭となり[[江川塾]]から教授に招聘され[[尼崎藩]]に仕官。[[旗本]]となり、[[開成所]]洋学教授から[[歩兵頭]]、[[歩兵奉行]]となり[[伝習隊]]を結成。[[戊辰戦争]]では[[箱館]]・[[五稜郭]]を占拠し[[陸軍奉行]]となる。
 
戊辰戦争後に入牢するが[[黒田清隆]]の尽力で赦免され、[[開拓使]]五等出仕として[[明治政府]]入り。[[大蔵小輔]]・[[吉田清成]]の随行として大蔵少丞に就任し米国と英国に渡航し外債募集を行う。次いで[[工部省]]に入り公的に日本人として初めてシャム国([[タイ王国|タイ]])を訪問。第1回[[内国勧業博覧会]]御用掛に就任。工学寮美術学校が開校されると校長となり、次いで[[ヘンリー・ダイアー]]を教頭に据え、工学権頭・工学頭、工部省工作局長を経て[[工部省]]工学寮工学校([[工部大学校]]に改称、[[東京大学工学部]]の前身)の初代校長となる。続いて大書記官兼[[参事院 (日本)|参事院]]員外議官補工部技監に任じられ、[[第1次伊藤内閣]]の[[農商務大臣]]として転出した[[谷干城]]の後任として第3代[[学習院]]長に就任、[[華族女学校]]校長を兼務。外交面では、[[陸奥宗光]]の後ろ盾で清国朝鮮国駐箚公使として[[壬午事変]]、[[甲申事変]]により悪化した[[清国]]の[[袁世凱]]と交渉。
晩年には、[[小田原大海嘯]]で被災したり、息子に相次いで先立たれるなどの不幸に見舞われた。
 
明治44年([[1911年]])、 [[神奈川県]][[足柄下郡]][[国府津町]]の別荘において[[食道癌]]のため死去。享年78。
 
== 栄典 ==